このページは印刷してじっくりお読みください。


前へ戻る ホームへ
一度は自分の人生について考えてみよう
 まず、ごく手近のことから、始めましょう.
いったい、わたしたちにとって.一番身近で、一番ハッキリしていることは、何でしょう.それは・・・・・わたしたちはみな「生きている」・・・・・とい う、この単純なる事実です。 現実の社会の中で、この具体的な生身の自分が、生きている・・・・・これは、何びとも否定することのできない、明らかな、事 実です.
そして、実はキリスト教信仰というのは、あなたのこの疑い得ない「生きている」という事実に、正面からごまかしなく関わろうとしているのです。
キリスト教の信仰は、趣味や興味の対象ではなく、たんなる気分やリクツの問題でもなく、あなたの存在そのものに深く関わり、人間として正しく生きる生き方を示してくれるのです。


 ですから、キリスト教は、あなたにとって、けっして縁どおいものではなく、もっとも切実なものなのです。それは、あなたの生命そのもの、あなたの全存在 そのもの、と切りはなすことのできない関係をもったものです。あなたは、キリスト教の信仰を、他人ごとのように考えたり、いいカゲンにすませたりすること は、できないハズなのです。
植村正久1858(安政5)-1925(大正14)
 1873年洗礼を受け、神学校卒業後85年富士見町教会を建て、終生牧師を努めた。 1904年東京神学社を創立、校長として有力な伝道者を養成し、福音を日本に根づかせるために心血を注いだ。内村鑑三と共に日本の代表的キリスト者。

  ところで、この「生きる」ということは、カンタンなものじゃない.これは、まったく、障害物競走をしているようなものです。人生には、いろいろの障害物か ゴロゴロしております。じっさい、ただどうにかこうにか生きてゆくというだけでも、ナマやさしいことではない。どうして食ってゆくか、どうして命をつない でゆくか一一このことがすでに、いまの社会では、大部分の人にとってじつに大きな問題です.しかも、わたしたちの生活には、さらにそれ以上に、いろいろな 問題や重荷がのしかかっています。問題なしの人生などというものは、どこにもない。生活の不如意・不安、いろいろな災難、病気、それに生別や死別−−数え あげたらキリがありません。
 それでも、あなたは、「他人はいざ知らず、じぶんには今べつに大した問題はない」と言われるかも知れない。しかし、「きょうの他人の身、あすのわが 身」。いつ、どんなことが、じぶんの上にふりかかって来るか、わかりません。 「一寸さきは闇の世」、 一時間後にじぶんの上にどんなことが起るか、わた したちにはわからない。とりたてて問題のないときには、じぶんの身は安全だ、というように考えがちなものです。しかし、それが、なかなかもって安全ではな い。いつぞやも、東京の都内電車の安全地帯にトラックがのりあげ、電車を待っている人たちをハネとばしました。
安全地帯などといっても、そこまでトラックがとびこんで来るようでは、安全どころではない。人生というのも、そんなものです。じぶんで安全のつもりでいても、そんなことはアテにはなりません。
  人生の障害物を取りのぞくために、もちろん、わたしたちは、いろいろと工夫や努力をかさね、生活の改善や社会の改革をしてゆかねばなりません。しかし、ま た、わたしたちの力などではどうにもカタのつかぬことが、人生にはいくらも起ってきます。生きることのむずかしさを思うとき、わたしたちは、しばしば、じ ぶんのモロさや無力を感ぜざるを得ません。人聞の力などというものは、えらいように見えても、じっさいはタカの知れたものです。パスカルが言ったように、 人間は「弱い葦」です.人聞の力で何もかも割りきってしまえるものじゃ ない。このことを知った人は、なにかしら自分以上の力を、切実にもとめはじめます。ここに、宗教的な欲求がおこってきます。じぶんの力で何でもやってゆけ る、ヒトリでたくさんだ、宗教も神もいらぬ一一などと言う人は、じつは、ほんとに力ある人ではなく、人間の力の限りあることを知らぬ人と言わねばなります まい。 「わが辞書に不可能なる文字なし」と豪語したナポレオンの末路は、なにを示しているのでしょうか。



  人生の問題や矛盾のうち、最大のものは、「死」です.これには、わたしたち、なんとしても歯がたちません。死は、厳然たる事実です。見ぬフリすることはで きません。ゴマカシはききません。美人も白骨と化する、偉人もこれにうち勝ち得ない、巨万の富をつんでも逃れることはできない。あなたがタノミにしている もの、望みをかけているもの、これだけは大丈夫と思っているもの・それらすべては、死の前にもろくもくずれおちます.そこでは、富も健康も権力も、もはや 何のカもない。死は、いっさいのものをコナゴナにうちくだく.死を前にしては、人間は、その総力をあげても、全く無力です.ある医者が、わたしに、つくづ く申されたことがあります。 「病人の臨終のマクラもとにいるときほど、じぶんの無力を徹底的に思い知らされることはない」と。

  そして、この死は、いつやって来るかわかりません。イエスの有名なタトエばなしがあります(ルカ福音書12:16以下)---あるところに 、カネ持ちの地主がいた。その年はとりわけの豊年、お蔵の建てましをするようなサワギだった.かれは有頂天になった、「これでもう何の心配もない。一生お もしろおかしく暮せるだけのものができた」と。そのとき、かれにむかって、神の声がひびいてきた、「愚かなものよ.あなたの魂〔いのち〕は今夜のうちに取 り去られるであろう」と。………ほんとうに、このとおりです。一時間後に、一日後に、あなたの命は、とられるかもしれない。とつぜん死に直面せしめられる とき、なにがほんとうにあなたを支えてくれるのでしょうか。
 「死」という事実ほど、リクツにあわぬものはありません。生まれた以上は、かならず死ななければならない。生まれるということは、いわば、どうしても死 なねばならぬものになったことです。そして、いうまでもなく、生まれることと死ぬこと、生きることと死んでゆくこと、これは正反対のことです。この正反対 のものが、まるで、一本の糸の両端のように、一枚の紙の裏表のように、どうしても離れられないものになっているのです。わたしたちの生は、それ自身のうち がわに、はじめっから、その生をかみくだくものを抱きこんでいるのです。それは、死をはらんだ生です。わたしたちが生きていくのは、 「生きる」ことの否 定そのものである死にむかって突きすすんで行くようなものです。それでは、生きることは、無意味になってしまうのではないか。
 アルツィバーセフの「ランデの死」という小説をよむと、病弱な青年セミョーノフは、こう叫んでいます、 「ボクはもはやオジャンさ! おっつけ、ボクか ら、すばらしいゴボウが生えでるだろうよ!」と。死んでゴボウのコヤシになる!これが、わたしたちの生の終局なのか。とどのつまり.わたしたちは、土に帰 しコヤシとなるにすぎないのか。そんなものなら、わたしたちの生きる意味はどこにあるのか。人生の意義は何なのか。
 死の前には、わたしたちのタノミにしているものがすべて空しく、生そのものがかくも空虚に思   われるとき、それでもなお、わたしたちの生に意味と力 を与えてくれるものがあり得るのでしょうか。もし、そうしたものがあるとすれば、それは、わたしたち自身の力のなかにはない。わたしたち自身の生そのもの が、死の力におしつぶされる無力なものにすぎないからです。「死」の問題にぶつかるとき、わたしたちは、なにかしら自分以上のカを、求めずにおられなく なって来ると思います。



 生きている----これほどハッキリしたことはない、と申しました.しかし、わたしたちは、ただイヌやブタのように生きればよいのではない。人間らしい生きかたをしなければならない。わたしたちは「人間である」---これまた、文句なしにハッキリしたことでありましょう。
 「人間は弱い葦だ」といったパスカルは、それにつづいて、「しかし人間は考える葦だ」と申しました。考える---それは、人間として意識的な生きかたを することでしょう。ボンヤリと成りゆきしだい、いいカゲンのその日暮らし、行きあたりバッタリの生活、それでは人間としてのネウチがありません。問題と矛 盾のなかにあって、それをつきつめ、じぶんの生活を真剣に考え、なんとかして、生きガイのある・メアテをもった・メドのある生きかたをしたいものです。イ ヌやブタよりマシな、人間らしいマットウな生きかたが、あるハズです。いったい、わたしたちは、どのように生きるべきなのでしょうか。「いかに生くべき か」---これは、東西古今、すこしでもマジメに考えようとするすべての人間が、問わざるを得なかった問いであります。どのように生きるのがホントの生き かたなのか、ただしい生活とはどういうものなのか。
 現代は、大変動期です。今まで権威あるものとされていたいっさいが、崩壊しつつあります.現在ほど、生活の基準の失われている時代も、マレでしょう。わ たしたちの生活は、メアテを見失った・ヨリどころのない・土台を失ったものになっています。家を建てるのには、なによりもまず、土台がシッカリしていなく てはならない。土台がいいカゲンでは、いくら屋根を美しく葺いてもカベをキレイにかざっても、地震やアラシがやってくれば、ひとタマリもない。土台は、ソ トがわからは見えません。しかし、そのかくれた土台が、一ばん大事なものなのです。あの有名な「ガリヴァー旅行記」という本のなかに、屋根からサキに家を 建てようと考え、いくらやってみても失敗する人たちの話が、あります。これでは、いつまでたっても、マトモに家の建つ道理がない。じつにコッケイな話です が、わたしたちの生活も、それと大差ありません。わたしたちは、ちょっと見には、まァどうにかやっている。しかし、ほんとの土台ができていない。えらそう な顔をしていても、基礎工事がアヤフヤでは、まさかのときには。ペシャンコになってしまう。キリストは、神なき者の生活を「砂の上に建てた家」にたとえ、 信仰をもった者の生活を「岩の上に建てた家」にたとえました(マダイ福音書7:24以下)。まさしく、わたしたちの生活は、砂上の家のごときものではない でしょうか。これでいいのか。土台のない、グラグラした、フガイない、わたしたちの生活は、何に基因するのか。こうしたことを真剣に反省するとき、どうし ても、信仰の問題が切実なものとならざるを得ないのです。



  人間は、自然界のなかの一存在として、自然との関係においで生きています。また、人間社会のなかの一員として、人を相手とした生活をしております。しか し、さらに深いところに根ざすのでなければ、ホンモノの生活は出てきません。すなわち、絶対者を相手にした生きかたです。絶対者なる神こそ、わたしたちの 生命と存在とのまことの根源だからです.いかに生くべきかの問題をつきつめてゆくならば、わたしたちの生活を土台までほりさげて考えるならば、どうしても 神を問題にせざるを得なくなってまいります。
 人生には、じつに多くの問題があります。苦難の間題があり死の問題がある.道徳上の問題があり社会的な問題がある.しかし、それらいっさいをつきつめて ゆくとき、神の問題にぶちあたらざるを得なくなります。神の問題---これこそ人生の最大最深の問題であります。この問題を真剣に考えないのは、さいごの ドタン場で人生を放棄しているものと言わねばなりますまい。袖なしには、けっきょく、いいカゲンのところでお茶をにごしたマヤカシの生活にならざるを得ま せん。

 

ところで、果たして神は存在するのであろうか---AとBと私との対話---

  これはこれは、両君おそろいで、ようこそ………。

  このあいだから、ふたりで、いろいろ神の問題について話しあったんですが、どうもオサマリがつかないものですから………。

  それで、ボクたちの議論を先生にきいていだだきたいと思いまして…….こんばんは、ボク、先生にも大いに談じこむつもりなんです。

  大たいB君は、まっこうから、神なんかあるものか、の一本ヤリなんですから、おはなしになりません。

  すると、B君は、無神論者というワケか。

  べつに無神論というほどハッキリしてるワケでもないんですが、どうもA君の有神論なるものがチャチに思えてならないのです。

  ソラ、はじまった。イキナリこんな調子ですからね。今夜は、先生は.ごメイワクでしょうが、ふたりでトコトンまで論じあいたいと思います。

  大カンゲイ.大いにやりたまえ。

 B A君.ともかく、第1にだね、至極カンタンなことなんだが、神なんていっても、だれも、さわることも見ることもできない。そりゃ、もちろん、見神記だとか何とかいうものがあるのは、ボクだって知ってるさ。しかし、そんなものは、妄想にすぎんよ。

  見えないから無い、というのは、ランボウだよ。五感に感じられないものは無い、と言ってしまうのは、どうかな。五感以上の世界・感覚以上の世界はない、などと断言することはできんと思うけどね。

  だからといって、見えもせぬ神が存在するとも断言できまい? そもそも、神というような観念は、まだ科学の進歩しなかった時代のもので、科学の進んだ現代では、神の存在などということを考える余地はないと思うんだが………。   

   科学万能はマチガイだと思うな。科学ですべてが解けるもんじゃない。子供だましだと、おこられるかも知れんが---涙を分析すると、水分・塩分・その他と なる。たしかにそうだ。しかし、それだけでは、くやし涙も、うれし涙も、子のために流す母の愛の涙も、みんな同じことになつちゃう。それでは、涙にこもっ ている複雑な意味は、すこしもわからない。先生、どうでしょうか.

 私 さア、B君だって、なにも科学万能と 考えてるワケでもないでしょう.ともかく、科学には、やはり、その限界というものがあるでしょうね.早いはなしが、存在の意義とか歴史の目標とかいうこと は、こりや、科学の云々できることじゃなくて、哲学とか宗教とかの問題になりましょうね。

  ボクだって、科学ですべてカクがつくと思ってはいません.しかし、ものごとを科学的につきつめて考える ことをせずに、すぐ宗教とか神とかをもちだしてくるのは、こりや、ゴマカシで、ひじょうに有害だと思うんです。-----それから、A君、ボクには、もっ と実際的な大問題があるんだ。まァ一口で言えば、この自然界というものは、じつに不合理なことでイッパイだ。台風だとか地震・ツナミなんかで、悲惨きわま ることがおこる。弱肉強食というか、結局は力ある動物がハバをきかせる。自然界に働いているものは、じつに苛酷な力で、とてもキリスト教で言うような愛の 神が支配しているなどとは思えない。自然界を支配しているものは、ショペンハゥアーだったかの言葉をかりれば、盲目の意志、とでもいうものかな。

   ボクは、そうは思わない.この自然界には、愛と秩序が支配していると思う。B君の考えは一面的だよ。古いものだが、クロポトキンの「相互扶助」という本が ある。実際うつくしい相互扶助が、下等な動物のあいだにさえある。みんな、けっきょく、もちつもたれつで生きてるんだ。動物の排泄物は植物のコヤシにな る。 植物のはきだす酸素で動物は生き、動物のはきだす炭酸ガスは植物にとってなくてならぬものだ。それに、生命の神秘。これは、とても、人間ワザじゃない。人 間は生命をつくりだすことはできない.人造米を播いたって、芽が出てきやしないからね。生物の構造のすばらしさはどうだ。人間のカラグなど、じつにうまく できている。人間には、眼の玉ひとつ作ることができないんだからな.さらに、天体の運行、大宇宙の秩序にいたっては、ただ目をみはるだけだ。この宇宙は、 一糸みだれぬ秩序のもとに動かされている。天体が秩序ただしく運行していればこそ、何年後の何月何日の何時何分何秒に日蝕がおこる、ということまで計算で きようというもんだ。この宇宙には、こうした秩序を与えている何か絶対な力が働いているとしか思えない.

  それを、キミは、神とよぶワケなんだろう。しかし、キミ、それは飛躍しすぎるよ.

   まァ、もうすこし聞きたまえ。たとえば、このウデ時計だ。この部分品を、ハグルマやらネジやらゼンマイやら全部もれなくよせあつめて、コップか何かに入れ てガチャガチャふりまわしたところで、時計ができあがりはしない。また、バカやチョンには、時計を組みたてられるハズがない.正常な人聞で、その技術を身 につけているものにして、はじめて、これを組みたてることができる。この世界だって、それと同じこと、無秩序なヨセあつめじゃない.ここにキチンと時間の 合う時計があるのは、それを組みたてたレッキとした人間のいる証拠だ。ちょうど、そのように……。

  ………… ちょうど、そのように、秩序ただしい世界があるのは、それを秩序だてている大きな力のある証拠だ-----と、キミは、いいたいんだろう。そしで.キミ は、それを神とよぶんだろう。しかし、ボクに言わせると、それは、たんなる自然界の法則にすぎんね.法則なるものは、要するに法則さ。非人情なもんだ よ。…………まア、もうすこし言わせてくれ.………自然界のみならず、この社会はどうだ、われわれの人生はどうだ。まるでリクツにあわぬことばかりじゃな いか。ただしい人聞が苦しんでいるかと思うと、悪党どもがノウノウといい目をみている。つぎかもつぎと不幸の連続で、まるで、ふんだりけったりの目にあわ されている人があるかと思えば、すべてトントン拍子にうまくいってる人間もある。不合理なことでいっぱいだよ。人生の数しれぬ悲惨事を、キミは、いった い、どう説明するつもりなんだ。もし神があるものとすれば、それは、人生の不合理をどうにもできずユビをくわえて見ているデクの坊だ。また、もし、神が、 それを解決するだけの力をもつものだとすれば、その力がありながら人生の悲惨と不合理をみすごしにしてるんだから、愛も正義も持ちあわさぬものと言わざる を得ない.ある人が言ったように、「神は、カをもつとすれば愛ではなく、愛だとすればガをもたない」ということになろう。せいぜいおマケをしても.全能に して愛なる神などというものが存在するとは思えないな。

  ボクは、そんなふうには考えない。人生に は不合理なことがタクサンあるにしても、さいごに勝つものは、理であり善である。自然界に理があり、また、人生全般にも理がはたらいている。悪人がそうそ ういつまでもハネをのばしておれるもんじゃない。天網恢々疎にしてもらさず。とどのつまりは悪人はほろびる.これは、天地の理法・神の力がはたらいている からだ、とボクは思うんだけどなァ。

  そんなふうに思えるフシもあるかも知れん。しかし、キミにし たって、まえに言ったような人生の悲惨事を否定することはできまい。それにだね、キミのいう天地の理法とやらを、いきなり、キリスト教でいうような人格的 な神といっしょくたにするのは、ムチャだよ。………先生。先生のいつぞやのお話に----人生の苦難や矛盾にあうと、人間は、自分の無力を知って神をもと めずにおれなくなる---というようなことがありましたが、ボクは、人生の苦難は、人間の無力と同時に神の無力をも知らしめる、と言いたいですね。

  なかなか手きびしいね。

   B君、まァ、もうすこし、ボクのはなしを聞きたまえ.ボクは、天地の理法ってなものだけでなく、もっと人格的な面もあると思うんだよ。たとえば、良心、よ ほどの悪党にも、良心のヒラメキというものがある。この良心というヤツは、なにか神々しい力をもっていて、権威をもってわれわれに迫ってくる。ドストイェ フスキーの「罪と罰」のなかに出てくるラスコリニコフ。老婆を殺してからの、かれのあの怖れと悩み、あれは、良心に責めたてられたからだ。良心がわれわれ を超えた権威をもって迫るのでなければ、こうしたことは無いハズだ。この良心こそ、神のササヤキだ。良心の背後には神が立っている。もう一つは、人間の理 想の問題だ.理想は、もちろん、各人によって、それぞれちがう。しかし、人間の理想の完全なスガタは、真・善・美の統一にあると思う。人間のこの究極の理想、これは、神をおいてはない。良心の背後にあり、人間の人格的な理想像である神、これは、なにか人格的とでもいうべきものだと思うんだが………。

  どうも、ボクには、シックリこない。先生、A君みたいな、こんな甘い考えかたで、いいんでしょうか。

   そうですね………。ボクは、A君の気持ちもわからないじゃないが、しかし、B君の指摘するような事実、いわば無神的な現実だね、これを否定することはでき ないと思う。経験ばなしになりますが、もともと、ボクは、牧師になるつもりで神学校にはいったんじゃなかった。じつは、中学校〔旧制〕時代に、いろいろな 問題で苦しむようになり、それを信仰によって解決したいと考えたのが、神学校へはいる動機だったんです。その問題というのはけっきょく、自然界や社会にお ける不合理な事実、人生の苦難と死の問題、人間性にまつわる矛盾、そうしたものでした。そのため、ひじょうに懐疑的な気持ちになってきました。そもそも、 神学校にはいろうというのが、こうした問題と疑惑からだったんだから、B君の言うことはよくわかります。たしかに、現実をみるならば、無神論にカタンした いような気持ちにならざるを得ない。俗にいう「神も仏もないものか」というヤツ………。

  それでは、先生は、無神論にも真理がある、と言われるワケですか。

  そうなるかも知れんな。

  ヘンだなア。なんだかカタすかしをくってるみたいで………。

   B君、ボクは、もっと言いたいことがある。………先生にも、よく聞いていただきたいです。………それは、宗教心ということです。へいぜいは別にそんなこと を感じない人でも、なにか事のあるときは、神をもとめる、じぶん以上の力にすがりたくなる。名前は忘れたが、フランスのある無神論者の乗ってた船が、難破 したことがある。木のキレハシにつかまって浪にもまれていたときに、かれは、おもわず「神よ、助けたまえ」とさけんだ。それで、あいつの無神論は陸の上で は通用するが海上では通用しないと、世間のモノ笑いになったそうだ。むかしも今もかわりなく、文明人たるとヤバン人たるとを問わず、すべての人間の心の底 には、なにかしら宗教心らしいものがある。これは民俗学者や宗教学者があきらかにしていることだ。たとえば、御幣をかつぐとかエンギをかつぐとかいうこと がある。野球やテニスのような近代的なスポーツの選手たちでさえ、よくエンギをかつぐ。これは、じぶんの実力以外に、なにか「運」といったものをタヨリに するところから起ることで、一種の宗教心ということができよう.ともかく、人間には、ほとんどすべて、宗教心みたいなものがあるんだ。ところで、この宗教 心という事実は、神の存在の一つの証拠になりはしないだろうか。まア、もうすこし聞いてくれ………。神がないものなら、人間の宗教心なんてものも、いつか は消えさってしまいそうなものだ、とボクは思うんだ。ある本で読んだことだが一一一ある種の深海魚の眼は、眼の機能を失っているそうだ。ふかい海の底まで は陽の光がさしてこない。光がさしてこなければ、眼はあっても用をなさぬ。それで、ついに、眼がそのハタラキを失ったんだそうだ。それと同じこと、神がな いものなら、宗教心も、ヤクにたたぬので、そのうちに消えてなくなってしまいそうなものだ。ところが、宗教心は、いろいろなカタチで、いまなお万人のなか に働いている。それは、その対象になる神があるためだ。なんらか神と名づけるようなものがあればこそ、神を求めずにおれぬ心も、人間のうちに働きつづける ワケで、宗教心が厳存するのは神の存在を証明しているものと言ってよかろう。

  B君、どうですか。A君の議論も、なかなかスジミチがたってるじゃないですか。

   そうですね………。しかし、A君の議論では、神の存在がハッキリしたとは言えませんね.………A君。大たい、キミが論じたところでは、せいぜい、なにか神 というようなものがあるらしいとか、あるかも知れぬとか、そんなことを言ってるだけで、なんらの確実性もない。ことに、キミが最後に言った宗教心の問題だ がね.ボクは、むしろ、それがクセモノだと思うんだ。

  どうしてだ?

   つまり、その宗教心が神をつくりだす、ということだよ。フォイエルバッハも言ってるじゃないか、 「人間は自己に似せて神を作った」って。ほんとにそうだ と思うね。人間の宗教的な欲求が、ついに、神が客観的に存在するかのごとき妄想を生みだしたんだ。要するに、神が人間をつくったんじゃなくて、人間が神を つくったんじゃないかな。このフォイエルバッハの思想をもっと徹底させたマルクスやエンゲルスの主張も、傾聴すべきだと思う.………ボクはべつにマルグス 主義者ってワケじゃないけどね………。マルクスたちは、フォイエルバッハのいう人間を、社会的な存在としてとらえた。それで、かれらが人間を論ずる場合に は、社会力としての階級とか、政治的権力とかいうものが、問題になる。したがって、その無神論は、階級斗争・政治斗争の過程において宗教を駆逐するとい う、ひじょうに実践的なものになる。かれらは言う----宗教とは、「抑圧された生物の嘆息(ためいき)」である。資本の盲目的権力にたいする「恐怖心が 神をつくった」。抑圧された階級が、権力斗争によって真の解放をたたかいとるという道をさけ、神に逃げこんで苦しみをやわらげようとするところに、宗教が おこってくる。だから、宗教は、勤労者の斗争力をマヒさせる「民衆のためのアヘン」である一一と。かれらの主張するように、階級的な関係から神がつくりだ されているとすると、階級なき社会がくれば神の映像は消えうせるワケだ。神を妄想させている母体が消滅してしまうのだから………。

    なかなか強硬だね。ボクは、マルクス主義の所論に一から十まで賛成することはできない。ことに、階級なき社会がくれば一さいの問題が解決されるように考 えているものだとすれば、大いにギモンがある。しかし、その宗教批判には、耳をかたむくべき点が多いと思いますね。じっさい、宗教は、しばしば、反動の役 割をつとめ、民衆のアヘンになってるんだからね。

  それでは、先生は、ボクたちの有神論と無神論について、どう考えられるのですか。

  そうですね………。カンタンに言うと、ボクは、B君の無神論にもソックリそのまま同意できないし、かと言ってA君の有神論にもにわかに賛成するワケにゆかない。………まァ、こうでも言うよりほかないですね。

 A 牧師さんが有神論に賛成できないというのは、どうもヘンですね。それは、どういうことなんでしょう?

   第一にですね、さっきB君もちょっとふれていたようだったが、有神論というのは、けっきょく、神のようなものがあるらしいと言うだけのことで、要するに、 想像や仮定の範囲をこえることができないのじゃなかろうか。まことにアヤフヤなものだ。しかし、ほんとうの信仰というものは、漠然とそんな不確かなものを 考えているようなタヨリないものではなく、全身をうちこむツキつめたものです。そうであればこそ、信仰が、まことの生きた力であり得るのです。そうしたも のは、とうてい有神論などからは出てきません。ボクじしん、有神論の研究も少しはしましたが、それではホントのものをつかむことができなかったんです。ど うでしょう、A君。

 A そう仰っしゃられると、そうかなァという気もしますけど………。

  A君。キミはいまボクと話している。しかし、ボクと話しはじめる前に、ボクの存在の証明をしなかった。

 A なんのことでしょう。突然おかしなことを言いだされて……….

   いや、ボクが言いたいのは、こういうことなんですよーーキミは、ボクとむかいあって話すときに、ボクの存在をまず証明し、その存在をたしかめてから話しは じめる、などというバカげたことはしない。そんな証明の必要などない。いうまでもなく、ボクのいることが確かで、うたがう余地などないからです。それで、 もしも、神在し給うということが、ハッキリした確かなものだとすれば、神の存在の証明など必要ないんじゃないでしょうか。これをウラがえしにすると、われ われ人間風情が論証したり証明したりしたアゲクのはてに「神はいる」ということになるようでは、そんな神さまはいっこうタヨリにならん、ということになり ましょう。わ れわれの有神論でタイコ判をおしてもらって、それでようやく神として通用するような神さまでは、まことにカゲがうすい。そんなアヤフヤなものでは、全身全 霊をかける信仰生活などおこりっこない。けっきょく一一有神論で証明される神なるものがあるとしても、それがホントの神かどうか、きわめてギモンだ一一と ボクは考えるんです。

  そうかも知れません。有神論を主張してはいても、ボクじしん、どれだけ生きた信仰をもっているかという段になると、アヤシイものですから………。

   まァ、そう早くカブトをぬがれてもこまるけど………。それから、さっきの宗教心の問題ですが………。これは、B君もさかんに論じていましたが、ボクも、ど うもこの宗教心というのはクセモノだと思う。神を求める気もちがあるから神がある、とは言えない。むしろ、その逆で、神を求める気持ちがつよいままに、な にか神さまらしいものを作りだしてしまう。そこから、いわゆる淫祠(いんし)邪教のタグイもおこってくる。想像妊娠とかいう病気(?)があるそうですね。 あまりコドモをほしがっている婦人は、妊娠しもしないのに、妊娠したのと全くおなじ徴候をあらわすことがあるというのです。ほんとうに赤ちゃんができたと 思って喜んでいると、じつはそうではない。コドモをほしがる気持ちがあまり強いために、ありもせぬのにあるように妄想され、その妄想がこうじてカラダにま で変調をきたす、というワケでしょう。ちょうどそれと同じように、人間には何か自分以上のカにすがらずにおれぬ気もち(宗教心)があるために、いつかし ら、いろいろな神さまがデッチあげられる。土人が猟にでかけるときに石につまずくと、それを神にまつる。すこし枝ぶりの奇妙な樹があると、シメナワをはり まわす。平田篤胤(あつたね)は、「神といえばみなひとしくや思うらん、虫なるもあり鳥なるもあり」と歌っていますが、全くそのとおり、じつにインチキな 神々がハンランしている。これみな宗教心のなせるワザなり。

  どうも、先生は、極端な例ばかりお引きになって……….

   いや、もっと上品な例をとっても、同じことですよ。思想家や哲学者などのいう神だって、けっきょくは人間の宗教的観念の創作物にすぎないんじゃないです か。フォイエルバッハが、神のモトは人間にある、と言ったのは、たしかにイタイとこをついてますよ。神というものが客観的に向うがわにあるように思ってい るが、じつは、人間の心のなかにある宗教的願望という小さなフィルムが、むこうがわのスクリーンに大きく映しだされたものにすぎない。むこうがわには何も ない。あるのは、ただ映写室のフィルムだけ。神とはわれわれの主観の客観的投影だ、と言われるのも、道理だと思いますね。

  ボクが言いたかったのも、その点なんです.

   まァ、もうすこし聞いてくれたまえ。ともかく、われわれが、いろいろの事から、神がいるとか神はどんなものであるとか、考えるのは、これは、けっきょく、 われわれの想像であり、われわれの知識やリクツで考えだしたものにすぎない。人聞のチエは、今までにすばらしい働きをして来たとはいえ、こと神に関して は、タカの知れたものなのです.いや、人間の知識は、けっして、神のことを知ることができない。議論やリクッではわからぬが、直観とか宗教的感情とかで感 知するものだ、宗教心によって感得するものだ一一という主張もなりたちそうですが、そうなると、けっきょく、じぶんの気持ちのままに自家製の神を考えだす というのがオチではないかと思います。つまるところ、わたしたち人間には、ほんとの神さまはわからないのではなかろうか。わたしたちが自分でわかったと思 う神、じぶ んで知ったと思う神、じぶんでつかまえたと思う神、それは、けっきょく、人間が自分のチエや力の範囲内でとらえたものにすぎない。むずかしく言うと、人間 の可能性の限界内における神、にすぎない.そんなものは、人間の相対的な可能性と運命をともにするもので、なんのタヨリにもならない。それは、神とは名の み、けっしてまことの神ではありません.

  そのとおりです。A君のいうような有神論では、けっして神は明らかにならない。

  ……… と言って、B君,だから無神論だ、と言うのも、セッカチすぎやしないかな。人間の知り得ない世界のことについて、ないと断言してしまっていいものかどう か。ともかく、有神論も無神論も、けっきょくは人間の議論にすぎない。そんなもので立ちもし倒れもするような神なら、こっちのほうでアイソづかしをしたく なる。

 A それでは、神のことについては人間は云々できない、ということになってしまう。先生の立場は不可知論だ………。

  さア、不可知論と言っていいかどうかは、わからないが……。ともかく、人間は神を知り得ない一一これが、まァ、ボクの結論みたいなことになります。この神について、あるとかないとか決定し得るように考える有神論も無神論も、身のホド知らぬものと言わねばなりますまい。

  じゃァ、どうしたらいいんです? それでは、神については全く懐疑的になるほかありません。先生のとこへうかがって、ボクはかえってコングラがってしまいました.

  「人にはできないが、神にはできる」ということばがあります(マルコ福音書10:27)。人間の限界を、神がやぶり給う。

 B どうも、そういう宗教的な表現は.シックリしません。もうすこし説明してぐださい.

   「人間から神への道」は、袋小路のように、行きづまりの道です。限りある人間の知識や 力では、神にたどりつくことなど、思いもよらない.わたしたちは、神を知ろうとして、あの道この道と神を追いかけている。しかし、それでは、いつまでたっ ても、ほんとの神をとらえ得ない。もしとらえたと思うときには、じつは、袋小路のスミっこで神とは似ても似つかぬものをつかまえて、それを神と思いこんで いるかけです.まことの神を知り得る道は、ただ一つしかない。それは、わたしたちから神への道ではなくて、それとは全く逆に、「神から入間への道」です。

 、具体的におっしゃって、ください。その道とは何ですか。

  キリストは、「わたしは道である」と言われました(ヨハネ福音書14:6)。神からわれわれへの道とは、ひとことで言えば、イエス・キリストのことです。

  そう伺がっただけでは、ずいぶん独断的にきこえますが………。

 私 じゃァ、もう少しお話しましょう。もうだいぶ遅くなったようだけど………。さっきもちょっと話したように、ボクは、もともと、牧師になるつもりで神学校にはいったワケではなかった。
いろいろなギモンを解決したいと思って神学校に入学した。いまから思えばまことに漠然としたもめではあったが、神を信じていた。ところが、入学してから 2、3年たつうちに、その神がわからなくなってきたのです。神があるように思っているのは、じぶんの主観的な妄想にすぎぬのではないか。けっきょく、神と いうものが、あると思えばある、ないと思えばない、そんなタヨリないものになってきた.考えつめれば考えつめるほど、わからない。有神論の本なども読んだ が、なんのタシにもならない。そのころ、ボクは、本気で、自殺ということまで考えたものです。そんな状態がしばらくつづきました。ところが、ある日、光が さしこんできたのです。それはーーじぶんが神をとらえるのではない、神がじぶんをとらえるのだ一一という実感でした。

  もう少しくわしく話してください。

  いや、それだけの ことです.じつに単純なことなんです。わたしが神を知るのではない、神がわたしを知るのだ。使徒パウロは、「いまでは神を知っているのに」と言ってから、 すぐそれを「否、むしろ神に知られているのに」と言いかえておりますが(ガラテや書4:9)、これがホントです。むずかしく言えば一一すべての認識におい ては、じぶんが認識の主体で、認識されるものが客体としてそこにある。ところが、神の認識ということでは、事情は全く逆だ。神が認識の主体で、人間は客体 であるーーということです。このことを、ボクは、つよく実感せしめられたのです.

  そういう実感も、じぶんの主観の気持ちにすぎんのじゃないですか.

   もちろんボクも、一応、そういう反省をしてみました。しかし、この実感の事実とはげしさは、そんなチャチなものではありませんでした.一一母親がヨチヨチ 歩きの小さい子をつれて歩くとき、そのコドモが母の小指かなんかを握っていたのでは、あぶない。コドモは、つまずくと、手をはして、ごろんでしまう。コド モの握る力は、強いようでいて、けっきょく弱いものだからです。しかし、そのとき、母親の方がコドモの手くびのところをしっかりと握っていたとしたら、ど うでしょう。コドモがつま ずいても、親がその手くびをぎゅっと握って引きあげる。それは、なんといっても大人の力ですから、大丈夫です一一ちょうど、これと同じことです。人間が神 をとらえるというのではたしかだ思っていても、つまずくと離す、すぐわからなくなる。しかし、神の把握力は絶対です。わたしたちが少しぐらいつまずいて も、神はギュッとにぎって離さない。いわゆる「神の確かさ」ですね.それ以来、30年ちかく、ボクは、いろいろつまずきました。疑惑にもおそわれました. 失敗もかさねて来ました。いまでも弱りこんでしまうことが屡々です.しかし、神がとらえ給うた、神がとらえていてくださる一一この確かさだけは、揺がない のです.これは、アテにならぬ人間の確かさではなく、ビクともせぬ神の確かさです。

  ボクとしては、まだ半信半疑ですが、先生のお話には何か真実のカがあふれているような気がします.

   ボクは、「実感」ということを申しました。じっさい、それは、ボクの力づよい経験です。しかし、ただ経験・実感というだけではないのです。さきにひとこと 申したように、神のほうから私をとらえてくださる一一というのは、イエス・キリストという事実においてハッキリ起っていることなのです。神とわたしたちと の関係では、神がまず働く、神が先手をうつ。神のほうから迫ってきて、神のほうから私たちをとらえてくださる一一これが、イエス・キリストなのです.

  そのイエス・キリストのことを、もう少しうかがいたいんですが………。だいぶおそくなりましたけど………。

 私 終電車に乗りおくれてもこまるでしょう。それに、今夜は、だいぶ話がはずんで、おたがいにつかれました。さいわい、ここに、カンタンですが、キリストについて以前に書いたものがあります。両君でひとつこれを読んでみてくれませんか。

 A、B では拝借してまいります.ながいことおジャマいたしました。おやすみなさい。

  (このページに掲載した文章は石島三郎著「キリスト教入門」’新教出版社)より転載したものです。)

 
前へ戻る ホームへ