2月の礼拝説教から PDFファイルで読む |
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聖書 使徒言行録8章1節b〜13節 |
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エルサレムの教会に対する迫害 |
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(c)日本聖書協
会『聖書 新共同訳』 より |
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説教 「福音の驚くべき力」 | |||||
「フィリポが神の国とイエス・キリストの福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた」(12節)。 | |||||
「秀吉に始まる日本におけるキリスト教迫害は、300年にも及びます。キリスト教の影響を恐れた徳川幕府は、寺請(檀家)制度によってキリスト教撲滅と日本の仏教化の徹底を図りました。初代教会はどうでしょうか。使徒言行録は、ステファノの殺害を皮切りに起こった苦難についてこう報じています。「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」(1節b)。 ところが、意外と思われることも聖書は記録しています。「散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」とあります(4節)。しかも、「フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた」(12節)といいます。当然のことですが、散らされた人々が緻密な伝道計画を練ったのではありません。信徒が突如伝道の熱意に燃えたのでもありません。「このままだと後がない」、そうした強い危機意識を募らせたわけでもありません。 彼らは、福音に生きていました。キリストを信じ、「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれて」(ペトロ一1章8節)いました。もっと言えば、キリストが彼らを生かしていました。ただそれだけです。しかし、そのことが最も重要です。「伝道」や「信仰の継承」を危機感に駆られて叫んでいれば良いのではありません。伝道は「主の宣教」と呼ばれるように、もともと主の御業です。それに喜んで仕えるのです。 メソポタミヤの占い師・バラムは、モアブの王バラクからイスラエルを呪うように委託されます(民数記22章11節)。しかし、呪えないばかりか、三度も祝福し、イスラエルには「主が共にいます」(23章21節)とまで述べます。私たちが大切にすべきことは、主イエス・キリストによって救われていることではないでしょうか。福音の驚くべき力に突き動かされることではないでしょうか。それが祝福に生きる道です。主に祝福されているものを誰も呪い切ることはできないのです(民数記23章8節)。 K・バルトは死ぬ前に言いました。「私が語らねばならない最後の言葉は、恩寵という概念ではなく、イエス・キリストという一つの名前である」。真理、信仰、罪、救い。それらを論ずることには意味があります。しかし、私達が最も大切にすべきは、イエス・キリストそのものです。信仰は、何かの概念や思想そのものではありません。キリストそのものが私たちの信仰の中身です。 |
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(2月2日の礼拝説教から 牧師 井上一雄) | |||||