3月の礼拝説教から

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   聖書 使徒言行録9章1〜9節
 
     
 

 1さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、2ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。3ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。4サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。5「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」7同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。8サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。9サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

 
      (c)日本聖書協 会『聖書 新共同訳』 より
 







           
  説教 「サウル、サウル」    
           
  サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた(4節)。  
 



 
           
   サウロはユダヤ教の総本山であるエルサレム神殿へ行き、大祭司に掛け合います。「この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」といいます(2節)。大祭司に求めたダマスコの諸会堂宛の手紙は、キリスト教徒撲滅の許可状だったのではないでしょうか。ところが、律法学者として名高いガマリエルは、教会迫害に反対でした。手を出したら「諸君は神に逆らう者になるかも知れない」と、権力者たちに警告しています(使徒言行録5章39節)。ガマリエルは、サウロの師です。
 にもかかわらず、キリスト者を「脅迫し、殺そうと意気込む」(9章1節)。それは、彼の誤った誇りや正しさ、そして熱心によるものでした(フィリピ3章4〜6節)。「誇り」に身勝手な「正しさ」と「熱心」が結びつくとき、人は過ちを犯します。偏狭な民族主義や熱狂的信仰の危うさはそこにあります。
 しかし、彼が迫害の息を弾ませてダマスコに近づいたとき、予想もしない出来事が襲います。突然、天からの光が彼の周りを照らし、彼はその場で倒れたのです。おそらく、何が起こったのか判らなかったことでしょう。しかし、しばらくして声がありました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。「どなたですか」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という答えがありました。
 もちろん、サウロは直接主イエスを迫害してはいません。彼が教会の迫害を始めた時、主イエス・キリストはすでに天にあられました。しかし、復活の主イエス・キリストは、霊的存在でもあられます。その主にとって、教会に対する迫害はご自分に対する迫害そのものなのです。サウロはこの時、目も見えず、ものも言えなくされます。そして回心へと向かわせられます。この出来事は、サウロの身の上に起きた特別な啓示だったに違いありません。
 けれども、これを「わたしとキリストとの出来事」と受け止めた人は、数え切れません。長期にわたって、教会に厳しい弾圧をし続けたローマ人たちもまたそうです。「ローマ人、ローマ人、なぜ、わたしを迫害するのか」。そのように受け止めたローマ人の多くは、回心して行きました。「なぜ、わたしを迫害するのか」は、威嚇の言葉でありながら、「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23章34節)と執り成す主イエス・キリストの、救いへの招きの言葉でもあるのです。
 
    (3月9日の礼拝説教から  牧師 井上一雄)