4月の礼拝説教から PDFファイルで読む |
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聖書 ヨハネ福音書13章1〜8節 |
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1さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。2夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。3イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、4食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。6シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。7イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。8ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。 |
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(c)日本聖書協
会『聖書 新共同訳』 より |
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説教 「この上なく愛し抜かれた」 | |||||
過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた(1節)。 | |||||
十字架を前にした主イエスは、「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と福音書記者は語ります。口語訳聖書では「最後まで愛し通された」、文語訳聖書では「極みまで愛したまえり」となっています。人の愛は、死という越えられない壁を経験します。主の愛もまたそうなのでしょうか。だとすれば、私たちは十字架の悲惨を深く嘆き、悲しみに暮れるしかありません。 しかし、それは無用です。主の十字架は、神の愛の成就だからです。ギリシア語原典の「この上なく=テロス」は、名詞としては「完成」や「成就」、副詞としては「永遠に」という意味をもつ言葉でもあります。福音書記者は、主が十字架を前に弟子たちの足を洗った「事件」を通して、そのことを伝えているのです。主の十字架上の最後の言葉もそれを示しています。「イエスは、このぶどう酒を受け取ると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(ヨハネ19章30節)。神の永遠の愛を信じる信仰の歴史は、実にこの「成し遂げられた」から始まりました。 それにもかかわらず、人間は神の愛を疑ったり、拒んだり、否んだり、裏切ったりします。そうした人間と真正面から向き合うのが、洗足と十字架のできごとです。主は、「わたしのしていることは、今はあなたがたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)と告げておられます。私達の人生も「後から」分って行く人生ではないでしょうか。 主は、ご自身を売り渡そうとしているユダの足も、他の弟子たち同様丁寧に洗って行かれます。ペトロは、「わたしの足など、決して洗わないでください」と拒みました(8節)。しかし、こう諭しておられます。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(8節後半)。このことで分るように、主が洗われるのは単に足ではありません。「あなた」です。心の中にユダやペトロを抱えていたとしても、十字架の主と「何のかかわりもない」人は一人もいないのです。 埃の多いユダヤでは、家に入る前に足を洗うのは欠かせませんでした。キリストの家である教会、永遠の家である天の国には、主イエス・キリストに罪を洗っていただいた者として迎えられるのです。「わたしの足など、決して洗わないでください」などと言わないことです。 |
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(4月13日の礼拝説教から 牧師 井上一雄) | |||||