5月の礼拝説教から

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   聖書 使徒言行録9章10〜19節a
 
     
 

10 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。11 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。12 アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」13 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。14 ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」15 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。16 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」17 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」18 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、19 食事をして元気を取り戻した。

 
      (c)日本聖書協 会『聖書 新共同訳』 より
 







           
  説教 「ア ナ ニ ア」  
           
  すると、主は言われた「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名伝えるために、わたしが選んだ器である」(15節)。
 
 



 
           
  アナニアは、「何百年に一人の逸材」と言われるパウロ(=サウロ)に比べてあまりに地味です。しかし、パウロの回心は主の御業に違いありませんが、彼なくしては語れません。主が選んで用いられたアナニア、彼を通して学ぶべきものがあります。
 第一には、主イエスの御心に生きることです。主は言われました。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章43,44節)。ユダヤ人の多くは、「隣人」を「同じ民族」と「律法を守る人」に限定しました。それ以外の人を「愛さなくてもよい人」や「憎んでよい人」にしたのです。けれどもアナニアは、律法と和解の福音に生きます(使徒言行録22章12節)。隣人と敵をはっきり分け、「敵」に憎しみの感情をぶつけがちな今日、アナニア的生き方がますます重要になっています。
 しかし、彼にも葛藤がなかったわけではありません。教会を迫害し、聖徒たちに悪事を働いて来たサウロが赦せません。そのためサウロが回心したことを告げられても、すぐには受け容れられません(9章13,14節)。私達も人一人受け容れるにも、葛藤することがあります。しかし、主イエスに「行け」と言われると、彼はサウロのもとへ行きます。信仰があるからです。信仰は、自分のこだわりを捨てて神の御旨に従うことへの飛躍です。そのため、ある人は「サウロの回心の前にアナニアの回心があった」と言いました。誰かの回心のために、私たちの回心も生かされます。
 アナニアの物語を通して学ぶ三つ目は、「一緒に生きる」ということです。パウロが偉大であってもなくても、彼にはアナニアが必要でした。キリスト者は、決して独りでは立たず、「みんなで立ち、みんなで生きる」ということを聖書は教えてくれます。もちろん、それは神の召しによって起こることです。「サウル、サウル」(9章4節)と呼んだのも、幻の中で「アナニア」(9章10節)と呼びかけたのも、同じ主イエス・キリストです。主に呼ばれた者として人を見る時、兄弟が見えます(17節)。
 アナニアに会うと、「たちまち目からうろこのようなものが落ち」、サウロの目は見えるようにされました(18節)。聖霊に満たされて、曇りがちな心の目から、さまざまな意味でのウロコを落とされたいと思います。 

 
    (5月4日の礼拝説教から  牧師 井上一雄)