7月の礼拝説教から

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   聖書 使徒言行録10章1〜8節
 
     
 

 1さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、2信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。3ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。4彼は天使を見つめていたが、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。5今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。6その人は、皮なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」7天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、8すべてのことを話してヤッファに送った。

 
      (c)日本聖書協 会『聖書 新共同訳』 より
 







           
  説教 「信仰あつく、神を畏れる人」  
           
  カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた(1,2節)。
 
 



 
           
   カイサリアに駐屯するローマ軍、その百人隊長コルネリウスについて、聖書はこう紹介しています。「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(2節)。彼はローマ人でありながら、ユダヤ人が信じていた神を信じ、ユダヤの貧しい人や抑圧された人を助けていたのです。ローマ人とユダヤ人、支配する側とされる側、富める者と貧しい者。そうした壁を乗り越えようとしていたのでしょう。神を心から畏れ敬っていたからです。パウロは言います。「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります」(ローマ3章29節)。
 もちろん、コルネリウスも軍人です。「皇帝を恐れる以上に、神を畏れる者」でどこまであり得たかは分かりません。上官の命令と神のご命令の間(はざま)で苦しむことがきっとあったはずです。
 キリスト者としてどう考え、どう決断し、どう行動するか。それ以上に、別な「○○としての自分」にこだわってしまう自分がいます。私たちは壁や塀の前に常に立っているのです。しかし、それを乗り越えるのも、神を畏れることから始まるのではないでしょうか。第二次大戦中のリトアニアで、日本の同盟国ナチス・ドイツに追われた6,000人のユダヤ人の命を救ったキリスト者・杉原千畝。彼もまた、「主を畏れることは知恵の初め」(詩編111篇10節)であることを私たちに語り掛けています。
 「信仰心あつい」コルネリウスの救いのために、神はキリストとの出会いを用意しておられました。もちろん、直接お会いすることはできません。福音を語るシモン・ペトロが用いられます。それを知らされたコルネリウスは、早速、「側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士」(7節)をヤッファにいたシモンのもとに遣わします。
ローマ軍の別の百人隊長と主イエスとの出会いを思い起こさせます(マタイ8章5〜10節)。彼は、病気で苦しむ部下の癒しのために、主イエスにこう願いました。「主よ、・・・ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」(8節)。軍隊では目の前に上官はいなくても、その絶対的な命令が部下を動かします。私達もまた、直接主を見なくても、主の御言葉に生かされています。主の権威ある御言葉のもとに私たちは集められ、遣わされて行くのです。
 
    (7月6日の礼拝説教から  牧師 井上一雄)