9月の礼拝説教から

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   聖書 使徒言行録 11章 1〜18節
 
     
 

 1さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。2ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、3「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。4そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。5「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。6その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。7そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、8わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』9すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。10こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。11そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。12すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。13彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。14あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』15わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。16そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。17こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」18この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。

 
      (c)日本聖書協 会『聖書 新共同訳』 より
 







           
  説教 「聖霊の同じ賜物」  
           
  「主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、・・・ どうして妨げることができたでしょうか」(17節)。  
 



 
           
   「使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした」(1節)とあります。この場合の「異邦人」(原典では「エスノス=民族」の複数形)は、ローマの百人隊長コルネリウスとその親類や友人たち(10章24節)のことです。皆、ペトロから福音を聞いて主イエスを信じ、洗礼を受けたようです(10章44〜48節)。ところが、この知らせを苦々しく思う人たちがいて、エルサレムに戻ったペトロに「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言って非難しました。
 「神に選ばれた民のしるし」である割礼を重んじる、それは神がイスラエルに命じられたことです(創世記17章9〜14節)。結果、割礼は他の民族との区別の象徴となり、偶像礼拝に染まらないための生活の規範にもなりました。ところが、その「選び」が神の憐れみによることを忘れたイスラエルは、神と人に対する謙遜も忘れて行くようになります(エレミヤ書4章4節)。自分が帰属する民族や国家を愛することは大切なことです。しかし、愛国や自民族の素晴らしさが声高に叫ばれるとき、大抵、思い上がりや他の民族に対する蔑視も同時に起こります。
 しかし、主イエス・キリストは「敬愛すべき隣人」として異邦人を指し示されます(「善いサマリア人のたとえ」ルカ福音書10章25節以下)。そればかりか、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16章15節)と命じておられます。その点、ペトロが異邦人のところへ行ったことも、彼らと食事を一緒にしたことも、御心にかなうことでした。優先すべきは、「自分のように彼らを愛すること」であり、彼らも共に救われることなのです。
 「わたしが話しだすと、聖霊が最初にわたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました」。――ペトロは、異邦人に福音を宣べ伝えた時の様子をそう伝えました(15〜16節)。聖霊が降る。それは、誰にも、何によっても妨げることのできない神の御業であり、賜物です(17節)。「イエスは主である」という告白も聖霊なる神による出来事です(コリント一12章3節)。その神に信頼して、伝道と和解の業に励みましょう。
 
    (9月7日の礼拝説教から  牧師 井上一雄)  
           
           
           
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