10月の礼拝説教から PDFファイルで読む |
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聖書 使徒言行録 12章 1〜11節 |
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1そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、2ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。3そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。4ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。5こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。 |
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(c)日本聖書協
会『聖書 新共同訳』 より |
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説教 「ペトロは眠っていた」 | |||||
ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた(6節)。 | |||||
「信仰深い人は、ペトロのように必ず守られる」。そう断言する人がいます。しかし、聖書は、絶体絶命の危機の中でペトロが助け出されるその前に、使徒ヤコブが殺害された事実を告げます(1節)。「ペトロは敬虔な人だったから助けられ、ヤコブは不信仰だったから殺された」などとは一切書いていません。 神はむしろ、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ福音書5章45節)方です。わたしたちが神の「敵であったときでさえ、御子の死によって和解させて」くださる方なのです(ローマ5章10節)。ご利益信仰は棄てましょう。むしろ、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈り」(マタイ5章44節)、逆境の中でも主を信じて行きましょう。 ところで、ペトロが牢に入れられると、「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」といいます(5節)。牢に入れられているペトロと、牢の外にいる教会の仲間。隔てているものはあまりにも大きい。しかし、祈りで繋がることができます。教会は信仰共同体です。「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやる」(ヘブライ13章3節)者たちの群れです。 教会の仲間の祈りをおぼえながらも、ペトロはこの時、死を覚悟していたことでしょう。ヤコブが既に殺されています。主イエスが処刑されたのも、今のように過越祭のときでした。ところが、人々の祈りのためもあってか、牢にいるペトロは、二人の兵士と鎖で繋がれながらも「眠っていた」といいます。何という平安でしょう。 わたしたちにも、地上での生活の終りの時が来ます。ある日突然かも知れませんし、少しずつ備えをして「その時」を迎えるのかも知れません。覚悟をしておく必要がありますが、なかなかできません。しかし、その「構え」ならできます。「構え」を意味する、「建物の構造」や「物事を構築する」の「構」には、「つくる」という意味もあります。死に向き合う「構え」をして行くことは、死に対してだけではなく、人生そのものを「作って行く」ことにもなるのです。 主イエスに、「年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と言われていたペトロ(ヨハネ福音書21章18節)。彼は、続けて「わたしに従いなさい」と言われます。キリストに従おうとする構え、それが、わたしたちの信じて生きる人生そのものを作るのです。 |
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(10月5日の礼拝説教から 牧師 井上一雄) | |||||
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