12月の礼拝説教から

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   聖書 使徒言行録 13章36〜43節
 
     
 

36ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。37しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。38だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、39信じる者は皆、この方によって義とされるのです。40それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。
41見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。
  わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。
  人が詳しく説明しても、
  お前たちにはとうてい信じられない事を。』」
42パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。43集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。

 
      (c)日本聖書協 会『聖書 新共同訳』 より
 







           
  説教 「この方によって義とされる」  
           
  この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです(38節,39節)。  
 



 
           
   統一国家としてのイスラエルを形成した王・ダビデは、首都エルサレムを中心とする信仰共同体を作り上げた人でもあります。その功績に対する賞賛は幾時代にも及びます。ところが、パウロはこう言います。「ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、先祖の列に加えられ、朽ち果てました」(36節)。
 蓮如上人は、人の命を「朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身」と唱えました。その上で「されば、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせ、念仏申すべき」と教えています(『白骨の章』)。聖書も同じでしょうか。いえ、少なくとも、主イエスの死と復活は単なる「教え」ではありません。「できごと」、「生ける神のできごと」です。そのため、「しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることはなかった」(37節)と言うのです。
 「復活」は、科学的な知識の枠にも、人間の常識の枠にも嵌(はま)りません。当然、私たちの知性や理性の枠にも嵌らない。そのため、弟子たちは甦られた主イエスとの出会いに衝撃(ショック)を受けます。しかも、復活の主は何度も彼らの前に現れました(使徒言行録1章3〜5節)。結果、彼らが最初伝えたのは、「キリストの教え」というより、「生ける神と出合った衝撃」だったのです。
彼らは、十字架と復活の主イエス・キリストを宣べ伝えたために、ユダヤ人の反感を買います。けれども、彼らが灯した火は「白骨の教え」ではありません。迫害によってさらに燃え上がり、燃え広がって行く信仰です。それは、人を生かすキリストの命の燃え広がり、新しい命に生きる人を次々と生み出す火です。
 ユダヤ人は、律法を行うことによって神の御前に義とされる、そう信じて来ました。しかし、律法に背き不義を重ねているのが実態です(アモス5章7,12節)。自ら義であられる神は、その義をさばきにおいて現されます。しかし、それに耐える義人は一人もいません(ローマ3章20節)。そこで神は、御自分の御子をさばくことによって人の罪の贖いとされました。イエス・キリストによって人を罪と死から贖い、信じる者を義とする道を備えられたのです(ローマ3章21〜26節)。パウロが「信じる者は皆、この方によって義とされる」(使徒言行録13章39節)と明言するのはそのためです。これこそ私たちの信仰であり、伝道の核心です。  
 
    (12月7日の礼拝説教から。牧師井上一雄)  
           
           
           
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