2月の礼拝説教から

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   聖書 使徒言行録 14章 1〜7節
 
     
 

1イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユ ダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。2ところが、信じようと しないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。3それでも、二人はそこに長くとどま り、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。4町 の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。5異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になっ て二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、6二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデ ルベ、またその近くの地方に難を避けた。7そして、そこでも福音を告げ知らせていた。

 
      (c) 日本聖書協 会『聖書 新共同訳』 より
 







           
  説教 「恵みの言葉を証しする」  
           
  それで も、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証し されたのである(3節)。  
 



 
           
    伝道には順風の時もあれば、逆風の時もあります。日本では、西洋文明を取り入れた明治前半や、敗戦後の「キリスト教ブーム」の時は順風 だったかも知れません。しかし、かつては「邪宗門」、「敵国の宗教」として蔑(さげす)まれました。聖書は言います。「御言葉を宣 べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい」(テモテ二4章2節)。今がどんな時代でも、一喜一憂してはなりません。 「時」は神の御手にあります。
 ピシディアのアンティオキアから追放される時、パウロとバルナバは足の塵を払い落としてイコニオンへ向かいました(13章51節)。「足 の塵を払い落とす」行為は、怒りや呪いのしるしではありません。「悔い改めなさい」という勧めであり、キリストの執り成しを 乞うしるしです。イエス・キリストを受け容れないまま滅びてはなりません。
主の弟子たち自身、十字架の意味が理解できないほど頑なでした。パウロなどは、教会の迫害者でした。その彼らを主は悔い改めへと導き、 「恵みの器」とされました。わたしたちもまた、救いを必要とする「罪人のかしら」です(テモテ一1章15節)。
さて、イコニオンに移ってからも、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂で福音を語りました。「結果、イコニオンでは、大勢のユダヤ人 やギリシア人が信仰に入った」とあります(1節)。ユダヤ人社会がある所には必ず会堂があります。初代教会は、その会堂で御 言葉を宣べ伝えました。そこに集う人たちは、同じ神を信じ、救い主を証しする旧約聖書を重んじる人たちです。彼らにこそ、真っ先に福音が 届けられるべきです。
しかし、皆が信仰に入ったわけではありません。異邦人を扇動し、パウロとバルナバに悪意を抱かせるユダヤ人もいました(2節)。「そ れでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った」(3節)のです。伝道には、「それでも」が重要です。この 「それでも」は、「それだから」とも訳せるギリシア語です。逆風に遭う時、「それでも」、そして「それだからこそ」、「主を頼みと して勇敢」であることができます。
主を頼みとして語る時、「主は彼らの手を通し・・・その恵みの言葉を証しされた」とあります。厳しい逆風に 悩まされと、つい「さばきの言葉」を語りたくなります。しかし、わたしたちが頼みとする主イエス・キリストは、わたしたちを通して、「さ ばき」ではなく、「恵みの言葉」を証しされます。
 
    (2月1日の礼拝説教から。牧師井上一雄)  
           
           
           
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