4月の礼拝説教から |
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聖書 ルカによる福音書 23章55節〜24章12節 |
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23章 |
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(c) 日本聖書協 会『聖書 新共同訳』 より |
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説教 「あの方は、ここにはおられない」 | |||||
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない」(5〜6節)。 | |||||
最高法院の議員であるヨセフは、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」(ヨハネ福音書19章38節)といいます。神よりも人を畏れる、「心の中だけの信仰」は、真の信仰ではありません。しかし、その彼が、ローマ総督に掛け合ってイエスの遺体を引き取り、墓に納めます。政治生命を失うことも覚悟の上だった筈です。彼をそうさせたのは、主イエス御自身にあります。目を離さずに十字架の主イエス・キリストを仰ぐとき、回心が起ります。処刑に携わった百人隊長も、見物に集まっていた群衆もそうでした。わたしたちも同じではないでしょうか。 亡くなられた主イエスについて、使徒信条は「陰府にくだり」と告白しています。「陰府」は、神から見放された世界をいいます。あの、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」(マタイ27章46節)は、まさに、陰府に向かう主イエスの叫びでした。そのように、死の恐ろしさは、肉体の滅びや愛する者との離別にだけあるのではありません。神から見放されることにあります。陰府を前に、人は何もできません。霊魂不滅の思想も、救いにはなり得ません。 しかし、その陰府に主イエスは行かれました。私達が陰府に赴くことがあったとしても、そこにも主イエスは行かれ、私たちを導くのです。「陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。・・・御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる」(詩編139篇8,10節)。わたしたちには、その主がおられます。 香料を持って墓へ行った婦人たちが、「中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」といいます(ルカ福音書24章3節)。途方に暮れていると、輝く衣を着た二人がこう告げます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(6節)。 この知らせは、ヨセフにも届けられたと思います。彼は、感動してやまなかった筈です。主イエスを葬った墓へ行くたび、彼は励まされ、信じる喜びに震えたのではないでしょうか。この時から、墓の意味は変わりました。主にあって、人生が墓で終わらないことを知らされるからです。その主を信じて、今は亡き人々をおぼえて墓へ赴くとき、わたしたちは「彼らもここにはいない。生ける主のもとにいる」、そう確信することになるのではないでしょうか。 |
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(4月5日の礼拝説教から。牧師井上一雄) | |||||