6月の礼拝説教から

 
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   聖書 マタイによる福音書16章13〜19節
 
     
 

13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。14弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

 
      (c) 日本聖書協 会『聖書 新共同訳』 より
 







           
  説教 「この岩の上にわたしの教会を」  
           
  「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(18節)。  
 



 
           
   フィリポ・カイサリアへ行ったとき、主イエスは弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました(13節)。彼らは、「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人も、・・・」などと答えました。今も、主イエスについて人はいろいろ言います。キリスト教について多くの知識を持つ人もいます。そうした知識や認識は大切に違いありません。しかし、それ以上に重要なのは、「人格の芯」になる認識です。わたしたちを生かし、人生を創って行く主の御言葉と主にある信仰です。
主はすぐにこう問います。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(15節)。このことで分かるように、主が最も関心を寄せておられたのは、ご自分に対する弟子たちの思いであり、信仰でした。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。そう問われる主の御前に、わたしたちも常にあります。
ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16節)と答えました。すると、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と主は告げられました。このすぐ後で、これからご自分の身の上に起きる、苦難と死そして復活の告知をされます(21節以下)。それは、初代教会が迫害の嵐に強く激しく揺さぶられることの予告でもありました。
「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」(7章25節)。そのように、激しい嵐に遭遇するとき、何を土台にしている建物かが露呈します。実際のペトロは、どうでしょう。主イエスが捕まると「そんな人は知らない」と三度言い放ったばかりか、呪いの言葉さえ口にしてしまいます(マタイ26章69節以下)。そのように、ペトロそのものが「岩=ペトラ」なのではないのです。
しかし、主イエスは、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と告げています。彼の裏切りを予告した時も、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました(ルカ福音書22章32節)。わたしたちの信仰は、自分の立派さではなく、主の執り成しの上に成り立ちます。教会もまた、主の御言葉と神によって現された告白の上に建つのです。 (6月7日・教会創立60周年記念礼拝の説教から。牧師井上一雄)

 
  (6月7日・教会創立60周年記念礼拝の説教から。牧師井上一雄)