8月の礼拝説教から |
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聖書 使徒言行録 16章25〜40節 |
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25真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。26突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。27目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。28パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」29看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し30二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」31二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」32そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。33まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。34この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。 |
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(c) 日本聖書協 会『聖書 新共同訳』 より |
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説教 「真夜中の讃美と祈り」 | |||||
「真夜中ごろ、パウロとシラスが讃美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた(14節)。 | |||||
理不尽にも鞭を打たれて投獄されたパウロとシラス。痛みとともに悔しさや怒りがこみ上げていたはずです。しかし、彼らが口にしたのは、呪いの言葉や復讐の誓いではありません。神への讃美と祈りでした。ナチスの拷問を受けたD・ボンヘッファーもまた、牢獄で神に告白しています。「お前は一体何者か。その問いがわたしをあざ笑う。しかし、わたしが何者だとしても、主よ、あなたはわたしの救い主です」。 惨めさや弱さによって自分に失望することがあったとしても、わたしたちには讃美や祈りがあり、告白があります。キリストに担われているからです。キリスト者にとっての苦しみは、キリストの苦しみにあずかることであり、キリストと一つにされることです。「希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマ5章5節)とある通りです。 ところで、他の囚人たちはパウロとシラスの讃美と祈りに聞き入っていました。真夜中なのに、誰も咎めません。二人の讃美と祈りによって、まことの神と向き合っていたからではないでしょうか。そのとき、突然、大地震が牢獄を襲い、「たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった」(使徒言行録16章26節)といいます。「目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした」ともあります(28節)。闇の中とはいえ、早合点であることは否めません。しかし、囚人に逃げられた看守は処刑されるのだそうです。 思い詰めて剣を抜いた看守に、牢の中からパウロが大声で叫びました。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」(28節)。囚人全員の安否を確認した看守は、意外な言葉を口にします。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」。二人が救いの道を宣べ伝えていることを知っていたからです。二人は言います。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(31節)。救われるために必要なのは、善い行いでも、経験から得られた深い悟りでもなく、ただ主イエスを信じることなのです。 地震のように、自分をこれまで支えて来たものが崩されることがあります。それによって失うものもありますが、確かな土台が露わにされることもあります(コリント一3章11節)。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(31節)。この御言葉は真実です。キリストを信じるわたしの信仰を、愛する者の救いのために神が用いてくださることを思います。 |
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(8月2日の礼拝の説教から。牧師井上一雄) | |||||