10月の礼拝説教から
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   聖書 使徒言行録 17章22〜29節
 
     
 

 22パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。23道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。24世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。25また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。26神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。27これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。28皆さんのうちのある詩人たちも、
 『我らは神の中に生き、動き、存在する』
 『我らもその子孫である』と、
言っているとおりです。29わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。

 
      (c) 日本聖書協 会『聖書 新共同訳』 より
 







           
  説教 「知 ら れ ざ る 神」  
           
   「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません」(25節)。  
 



 
           
   アテネでは、最高神ゼウスをはじめ、海の神ポセイドン、恋愛と美の女神アフロディテなど、人々が名付けた「あまたの神々」が信じられていました。注目すべきは、その中に「知られざる神に」と書かれた祭壇があったことです。多神教の神々はもともと人間が考え出したものですから、「八百万」でも足りません。「たたり」を恐れた彼らは、「知られざる神」という名にあらゆる神々をぶち込んで拝んでいました。
 それを見たパウロは、「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます」と述べます(22節)。決して褒めているのではありません。「信仰があつい」には、「迷信にあつい」という意味のギリシア語です。「他の人の信仰を尊重すること」、イコール「信心深ければ良い」ということにはならないのです。
だからこそ、「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」と言うのです。「知られざる神に」は、ギリシア語の単数形の「神に」になっています。唯一の神を示すために、直したのでしょう。このことからも「迷信にあつい」から「まとこの信仰にあつい」あり方へと導こうとしたことが分かります。
 脳でモノを考える人間は、さまざまな知識・情報・感情をパックにして、脳に入れ込みます。聖書の信仰も知的作業が含まれます。しかし、まことの神がわたしたちの小さな脳に入り切るでしょうか。いや、「神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません」(24節)。「我らは(が)神の中に生き、動き、存在する」(28節)のです。
 ところがパウロは、天地の造り主なる神だけ語ろうとはしません。創造信仰だけ語る、そのことの限界を知らされていたのです。そのため、このあと十字架と復活の主イエス・キリストを証しすることになります(30〜32節)。主イエス・キリストこそ、「知られざる神」です。主イエスを知らなければ、天地創造の神、「知られざる神」は本当には知られません。しかし、彼は、「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」と言います(27節)。低くなってわたしたちの傍らに来られた神、わたしたちの貧しさ、弱さ、罪深さを知り、そのために十字架と復活によって救いをもたらされた神。その神こそ、「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れて」おられないことを如実に示す、まことの神なのです。
 
   (10月4日の礼拝の説教から。牧師井上一雄)