11月の礼拝説教から |
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聖書 使徒言行録 18章1〜11節 |
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1その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。2ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、3職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。4パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。 |
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(c) 日本聖書協 会『聖書 新共同訳』 より |
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説教 「恐れるな。語り続けよ」 | |||||
「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。・・・この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(10節)。 | |||||
「人間の混乱と神の摂理によってジュネーブは成り立つ」という諺があります。人間の悲惨や混乱しか見えないような現実にも、神の善い備えと導きがある、という意味です。――今も続く世界の混乱、その根本にある人間の罪と愚かさ。にもかかわらず、神の善い導きによって世界もわたしたちも保たれている。――そう信じる時、暗闇の中でもキリストの光を見ます。「自分を笑うほどのゆとり」も与えられます。 けれども、「アテネを去ってコリントへ行った」(1節)パウロに、余裕はありませんでした。「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(コリント一2章3節)と述懐しています。「恐れ」には具体的な対象があり、「不安」にはそれがないとキェルケゴールは言いました。わたしたちもまた、具体的な、あるいは漠然とした何かのために、弱り果て、「恐れに取りつかれ、ひどく不安」になることがあります。何しろ、不完全で、死ぬべき存在です。しかし、どれほど恐れや不安に駆られて何事かなそうとしても、恐れや不安の感情を募らせるのがオチです。 伝道にもそれが言えます。恐れや不安を煽(あお)って伝道する人たちがいます。その多くが、いわゆる異端です。恐れと不安に駆られて、大切な信仰を失ってはなりません。しかし、「恐れと不安」があるとして、その次に来るもの、それが信仰なのだと思います。主イエスの十字架と死の先に、復活のできごとがありました。弟子たちの混乱と絶望の先に、復活の主との出会いがありました。 主イエスは告げられました。「恐れるな。語り続けよ。わたしがあなたと共にいる。・・・この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒言行録18章9~10節)。「小さな群れよ、恐れるな」(ルカ福音書12章32節)とも言われ、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ福音書18章20節)とも言われます。 わたしたちはとかく、「わたし」に捕らわれます。しかし、わたしたちは、独りで立つのではありません。独りで生きるのでもありません。「わたし」は「わたしがあなたと共にいる」と言われる、「キリストと共にいるわたし」なのです。主イエス・キリストが共におられるからこそ、どんなに小さな群れでも、また何があっても恐れる必要はありません(ローマ8章35節)。 |
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(11月1日の礼拝の説教から。牧師井上一雄) | |||||