2018年12月の礼拝説教から

 
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  説教 「眠りから覚めるべき時は既に来ている」ローマの信徒への手紙13章8〜14節  
           
  「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」(11節)。  
 



 
           
   ローマではユダヤ人キリスト者の追放が行われ、皇帝ネロによるキリスト教への大迫害が間近に迫っていました。そのようななか、ローマの教会に宛てた手紙でパウロは、「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」(11節)と述べています。しかし、彼が言うその「今」は、「危険が差し迫っている今」でも、「何年、何月、何日という今」でもありません。「眠りから覚めるべき時が既に来ている」という今であり、「救いは近づいている」という今です。

 彼がローマの信徒たちに見ていたのは、惰眠を貪る姿でした。キリストによって救われているという、その最も大切なことを忘れて、まるで暗闇を愛するかのように、「闇の行い」(12節)にふけっていたのです。外はとっくに朝の光に包まれているのに、自分の家だけ雨戸を閉め切ったまま、ということがあるのではないでしょうか。中にいる人にとっては、闇が現実なのです。しかし、たといわたしたちが「暗闇と死の陰に座している者たち」であったとしても、「まことの光」である主イエス・キリストは、そのような所にも来て下さったのです(ルカ福音書1章78,79節)。だからこそ、「眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、・・・救いは近づいている」(11節)と言うのです。今こそ、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けるべき時です(12節)。

 ここでは、「闇の行い」として、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」を挙げています。どれも、人前に出せないものばかりです。朝から宴会をしたり酔っ払っていたら、仕事になりません。淫乱や好色に明け暮れていたら、人間関係は壊れます。争いやねたみに没頭にしていたら、誰も相手にしてくれません。そのため、わたしたちは心の最も暗い所に「闇の行い」を隠しながら生きています。けれども、それを捨てていません。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ローマ7章24節)。

 そう告白したパウロが、「主イエス・キリストを身にまといなさい」と勧めます(13章14節)。「キリストを身にまとう」とは、「キリストの義をまとう」ことです(ローマ5章9節)。「中身は罪人のままではないか」と人は言うかも知れません。しかし、キリストに洗われた者に対して、主イエスは「全身清い」と宣言されます(ヨハネ13章10節)。「神の召しは人を育てる」という言葉があります。神は、キリストを身にまとう人の内側も清め、育ててくださるのです。
 
   (12月2日礼拝説教から。牧師井上一雄)