2019年1月の礼拝説教から

 
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  説教 「栄光に輝く王が来られる」詩編24篇1〜10節  
           
  「主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた。・・・城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ」(2節,7節)。  
 



 
           
   「山べにむかいて我、目をあぐ、助けはいずかたより来るか」という讃美歌があります(155番)。 私たち日本人がイメージする「山べ」は、緑豊かな故郷にたたずむ「ありがたさと懐かしさの象徴」かも知れません。 しかし、元歌の詩編121篇の自然は、そうではありません。恐ろしい谷や険しい山々です。詩編24篇がいう自然もまた、ときに恐ろしい牙を剥いて命を呑み込む存在です。 「世界とそこに住むもの」に見えるのは罪と悲惨かも知れません。聖書は、そうした現実を無視して、「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの」(1節)と、呑気に言うのでしょうか。

 もちろん、そうではありません。詩編121篇は、険しい谷や山々を命の危険を冒して巡礼する人が、主の助けを求める祈りの歌です。 24篇もまた、「主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた」というように、主に対する信頼の歌です。 大事なのは、自然や世界がどれほど恐ろしいものであっても、それらを御手におく主に信頼することです。 「信じられない」と言うなら、「大海=カオス(混沌)」に呑みこまれ、「潮の流れ=虚無」に流されてしまうことでしょう。しかし、詩編24篇は23篇と内容的に繋がっています。 「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」(23篇4節)。そう信じる人は幸いです。

 詩編24篇はまた、天地を造り支配する神を「栄光に輝く王」として迎える歌でもあります。「強く雄々しい主、雄々しく戦われる主」(8節)を、教会は主イエス・キリストに見て来ました。この詩編24篇を待降節(アドベント)やエルサレム入城の受難の季節の礼拝でよく用いるのはそのためです。すべてを御手に治める神は、この世に遣わされた主イエス・キリストとして、悩みに満ちたこの世に来て、私たちと共に住まわれたのです。

 その栄光は、この世の王のとはまるで違います。エルサレムに子ロバに乗って入城し、カルバリの丘で十字架につき、罪と死に苦しむ人類を罪人の一人となって執り成し、救う。そのように「雄々しく戦われる主」こそ、私たちの主イエス・キリストです。「城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ」(7節)とあるように、私たちは閉ざされがちな心の門を開かなくてはなりません。この主は、「とこしえの門」である永遠の御国の門を開く方でもあるからです。
 
   (1月6日礼拝説教から。牧師井上一雄)