2019年10月の礼拝説教から

 
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  説教 「やもめの信仰」 ルカによる福音書18章1〜8節  
           
  「神は、昼も夜も叫び求めている・・・彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」(7節)  
 



 
           
    この世と同化するだけの教会、愛する人たちが滅んで行くのを眺めているだけのキリスト者。私たちがそうした者に過ぎなければ、叫びをあげる必要は全くありません(R・ボーレン)。しかし、私たちは「地の塩」・「世の光」(マタイ5章13~16節)です。その使命に生きようとすれば、必ず闘いがあります。その闘いは、「血肉を相手にするものではなく」、見えない敵との闘いです(エフェソ6章12節)。そのため、祈りという武器が与えられています。
 「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」(ルカ18章1節)、主イエスはたとえを話されます。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた」とあります(2節)。主は彼を「不正な裁判官」と呼びます(6節)。不正の根っこあるのも、「神を畏れないこと」にあります。では、彼は何も畏れなかったのでしょうか。いいえ、この世の権力を畏れました。用いたのもそうです。しかし聖書は、この世ではなく、「主を畏れることは知恵の初め」(詩編111篇10節)、と教えます。「主を畏れること」そのものが、人生の規範であり信仰の土台だからです。しかも、「神を畏れること」と「人を敬うこと」とは不可分です。
 この町には、主を畏れる「やもめ」もいました。他人から抑圧されていました。しかし、泣くことはあっても、屈することはありません。不正な裁判官のところに来ては、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と訴え続けます。最初、取り合おうとしなかった裁判官も、「うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう」(5節)ということになりました。しかし、誤解してはいけません。彼女が願ったのはただ思い通りになることではなく、神の御心が行われることでした。
 この「やもめ」と誰でしょうか。「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」(7節)とは誰のことでしょうか。もちろん、教会のことであり、私たちキリスト者のことです。「キリストの教会は、涙を流し続け、押さえつけられ、棄てられたやもめのような状況に落ち込むことがあるのです」(C・ブルームハルト)。
 神の国(=支配)のしるしは、驚くような奇跡とは限りません。神を畏れず人を人とも思わない世にあって、このやもめのような存在として、教会が地上にあり続けていることそのものが、神の国のしるしです。主イエスは、彼女のように「絶えず祈りなさい」と、私たちを励ましておられます。「気を落とさず絶えず祈る」(1節)姿こそ、神の国のしるしなのです。
 
   (10月6日礼拝説教から。牧師井上一雄)