2019年10月の礼拝説教から

 
 ロゴ
ホームへ

説教集へ

           
  説教 「それは極めて良かった」 マタイによる福音書5章31〜32節  
           
  「不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる」(32節)  
 



 
           
   申命記24章1節には、男性は結婚して妻となった女性と離婚できるという内容が記されています。しかし、気まぐれにその場の勢いで「もう出ていけ」と言って追い出す、という横暴は許さず、離縁状という、きちんと手続きを踏んだ上での離婚が定められています。律法は、少しでもわたしたちが御心に沿って歩めるように、夫も妻もそれぞれの歩みが整えられるように、神様がくださった愛の戒めです。
 そもそも結婚は、神様が天地創造のときに定めた秩序です。創世記の2章の後半では、最後に女を創造したことが記され、彼らは一体となるよう語られています。神様はわたしたちに対して、相互のパートナーシップを形成して歩むことを求めておられます。わたしたちは、神様に用いられ尊重され、愛を受けているのです。人間同士の関係性においては、家族や友達などでも、支え合いながら歩むという点では同じです。
 ただ、教会では、「キリスト教は離婚を禁止している」と思われていることが多いと思います。聖書が記された当時、律法を利用して「決まりさえ守っていればいいんだろう」と言わんばかりに、勝手なことで離婚して相手の女性を困らせることがあったようです。主イエスは、律法に記された神様の御心を思いながら、離婚を戒めたのでした。神様の思いから離れていく者を、主イエスは放ってはおかれません。ただ単に、別れてはいけない、離婚してはいけないと言っているのではありません。不貞があれば離婚もやむなしと、生涯において支え合うパートナーを得た上でさらに欲しがる人のことを、見逃してはおられません。
 それならば、分かりやすい形で「離婚してもいいですよ」と言ってくださればいいのに、と思うかもしれません。しかしそうはおっしゃらないのは、自分を正当化する誘惑に陥らないためです。出会って神様によって結び合わされ結婚して、支え合うパートナーとなった二人でも、時にすれ違って修復不可能な場合、別れる選択があります。そうした時に、自分は正しいとして正当化してしまう誘惑があります。そんな中にあっても、お互いが神様の前では罪人であるという原点に立ち戻って祈りながら、よりよい道を模索したいものです。第一に天を見上げて、へりくだった上で、お互いがより生かされる道を探ります。
 主に従うわたしたちの中には、あるべき道へと招き、何度でも呼び戻してくださる主がおられます。再び歩むわたしたちの道は整えられています。なぜなら、神様にとって極めて良しとされているからです。
 
   (10月13日礼拝説教から。伝道師永井文)