2019年12月の礼拝説教から

 
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  説教 「主のみ名を讃美せよ」
詩編113篇1〜9節,ルカによる福音書1章46〜48節
 
           
  「ハレルヤ。主の僕らよ,主を讃美せよ。主の御名を讃美せよ」(詩編113篇1節)  
 



 
           
   今年、「パプリカ」という歌がよく歌われました。未来に向かう喜びや、誰かを思う切なくて温かい心を子ども目線で歌った歌です。その中に「ハレルヤ」という、聖書に由来する言葉が繰り返し出てきます。「ハレルヤ」はもともと、「ハレルー(あなたがたは讃美せよ)」と「ヤー(主を)」という言葉を繋げた合成語です。短いですが信仰の告白であり、人を神讃美へと招く言葉なのです。「ハレルヤ」に始まるこの詩編113篇は、高くいます神が「低く下られること」(6節)を預言しています。今日から始まるアドベントそのものが、神讃美への招きの出来事です。

 ルカによる福音書1章に、そうした招きに圧倒されて、深い畏れと感謝をもって神を讃美することになる人達が登場します。一人は、老いた妻によって、洗礼者ヨハネを神から授かると告げられた祭司ザカリヤ。二人目は、その妻エリサベト。そして、イエス・キリストを身ごもると告げられたマリアです。マリアが発した、「どうして、そのようなことがあり得ましょうか」という言葉(34節)は、三人を代表する率直な感想です。それとともに、神の御子の受肉そのものに対して、私たち人間が抱いている、無理解と疑いの表明そのものでもあります。実際、「暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1章5節)のです。

 では、彼らはどうやって無理解から理解へ、疑いから信仰へと変えられて行ったのでしょうか。それはこうです。――「どうして、そのようなことがあり得ましょうか」と問うマリアに、天使は告げます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。・・・神にできないことは何一つない」(35〜37節)。マリアは直ちに、「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えています。――そのように、私たちの無理解や疑いは、神御自身によってしか克服できないものです。「人間の知性という小さな器」に、神を納め切ろうとするのは愚かな試みです。

 聖霊によって神の力に包まれたマリアは、声高らかにこう告白しています。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」(ルカ1章47〜48節a)。「喜びたたえます」と訳されたギリシア語は、単純に「神を喜びます」という意味の言葉です。聖霊によって神の御力に包まれる人は、神の圧倒的な恵みに砕かれます。そして、神を讃美し、神を喜び、くすしき選びに悔いし砕けた魂をもって神に感謝することになるのです。ハレルヤ
 
   (12月1日礼拝説教から。牧師井上一雄)