2019年2月の礼拝説教から

 
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  説教 「神の御前での豊かさ」 ルカによる福音書12章13〜21節  
           
  「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」(12章20節)。  
 



 
           
   主イエスが語る御言葉に群衆は聞き入っていました。ところが、突如、「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」とある人が訴えます。聞いていなかったのでしょうか。それとも、聞く力がないのでしょうか。「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」(ルカ12章12節)とあります。聞くべきこともまた聖霊が教えてくださるのです。「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」方です(11章13節)。御言葉を聞くために、祈りたいと思います。
  この人と同じではありませんが、人間関係に苦しむと、主イエスを味方に付けてスッキリ解決してもらいたい、そう願うことがあるかも知れません。ところが主イエスは、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人にしたのか」と答えられます(13〜14節)。神の御名の濫用は許されません(第三戒)。「あなたの神」は、「あの人の神」でもあるだけでなく、もともと誰にも利用されない方なのです。
 主イエスは、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と注意されました(15節)。「貪欲」と訳されたギリシア語は、「必要以上に持とうとすること」という意味の言葉です。どれほど財産を持っていても、「もっと欲しい。人を押しのけてでもまだ欲しい」と考えるように、人間の欲には際限がありません。
 「たとえ」に出て来る金持ちもそうでした。大豊作に気を好くした彼は、思います。「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と」(19節)。その彼に神は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と告げます。
 財産は、この世的には「その人のもの」であっても、生きている間だけ神様から与えられたタラントン=賜物、また「レンタルされたもの」です。その証拠に、天国に持って行くことはできません。名誉すらそうです(詩編49篇18節)。命も同じではないでしょうか。主イエスは、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ」と言われます(21節)。主にあって神の絶大な愛と恵みを知る人は、神の御前に既に豊かなのです。
 
   (2月3日礼拝説教から。牧師井上一雄)