2019年3月の礼拝説教から

 
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  説教 「地上に火を投ずるために来た」 ルカによる福音書12章49〜59節  
           
  「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」(12章49節)。  
 



 
           
   聖書で「火」は、第一に、罪人に下されるさばきの象徴です。罪の町・ソドムとゴモラは、天から降ってきた硫黄の火で滅ぼされました(創世記19章24節以下)。火は、金属を精錬して純度を高めるように、「清め」の象徴でもあります。私たちの信仰も、試練という火によって清められます(ペトロ一1章7節)。
 「火」には別の重要な意味もあります。「火の中に神がおられる」と表現されることです。出エジプト記によれば、神は、燃える柴の中からモーセに語りかけ(3章4節)、モーセが率いる民を「昼は雲の柱、夜は火の柱をもって」導きました(13章21節)。申命記には、民が「火の中から語りかける神の声」を何度も聞いたとあります(4章12節、5章4,20,24節)。しかし、主イエスの言われる「火」が何を指すか、それらのうちのどれか一つに限定しなくても良いと思います。
 私たちは神のさばきに耐えられない罪人です。火で焼かれるべき存在です。けれども、主イエス・キリストは、私たちが受けるはずのさばきを一身に背負うために、この世に来られました。キリストが受けたその「さばきの火」は、私たちを清めます。「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(コリント一1章18節)とあるように、神は、御子の十字架という「燃える火」の中におられます。その十字架によって、私たちを救い、清めます。そして、今も十字架によって私たちに語っておられるのです。
 因みに、世界のいくつかの長老教会が、十字架と燃える柴を教会のシンボルにしています。その場合の「燃える柴」は、「聖霊の炎」でもあります。直接手で触れることの出来ない聖霊の炎。それは、それにあずかる者の内に働いてその人を清めるだけでなく、魂を燃やさずにはおきません。生きて働く、神の霊だからです。主イエスは、その火を投ずるために来られました。私たちの内に燃え広がせるためです。キリストが灯すその聖霊の火は、人を滅ぼす火ではなく、人を生かす火です。私たちにも、決して消えないその火種があります。罪を焼き尽くす、その恵みの炎によって救われ、清められている私たちは、その火種を多くの人に分け与えるように召されています。
 
   (3月3日礼拝説教から。牧師井上一雄)