説教 「ゲツセマネの主イエス」 マタイによる福音書26章36〜46節 | |||||
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(39節)。 | |||||
ゲツセマネは、恐れや悲しみを連想させるだけの場所ではありません。私たちに深い慰めをもたらす場所でもあります。人が憎み争っている所と、キリストが祈りの闘いをしたゲツセマネは繋がっています。私たちの悩み苦しみとゲツセマネは繋がっています。罪や弱さのために、神と人を愛することに破れを見る現実と、ゲツセマネは繋がっています。今日という日もまた、私たちを救うために、キリストが祈りの闘いをした、あのゲツセマネのあの日に繋がっているのです。 そのゲツセマネで祈っている時、主イエスは悲しみもだえ始められました(37節)。「悲しみもだえる」の原文の元の意味は、「人々から切り離される」ということです。自分を超える、測り知れない大きな存在、つまり、命をつかさどる神の御前で、自分がどうなるのか分からないのです。しかも、誰にも助けてはもらえません。主イエスは、そうやって罪人の私たちに代わって絶望を味わっておられるのです。聖書もまた、そのような主イエスの姿を少しも隠そうとはしません。 数年前、ある教会で葬儀が行われました。20歳にならない、若い女性の葬儀です。彼女は、医師からの余命宣告を受け入れませんでした。両親には、「私のために祈るのは、絶対、やめて」と強く訴えます。とにかく、生きることしか考えない。足しげく通う友達に、「頑張ってね」と励まされることを喜び、「前向きなあなたに励まされる」と言われては、感激する。けれども、たくさんの友達に強く励まされた日ほど、夜、布団をかぶって激しく泣いたそうです。 「わたしは死ぬばかり悲しい」。そう言われた主イエスは、ある意味、死を受け入れることを拒絶し、生きることしか考えない中で、本当は激しく死を恐れ、神の御心を知らないためにもだえる、そうした罪人としての私たちの悲しみや恐れも担っておられるのではないでしょうか。躓(つまず)きにしかならないような、主の苦しみの意味は、そこにあるのだと思います。 聖書は告げます。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4章15,16節)。 |
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(4月7日礼拝説教から。牧師井上一雄) | |||||