2019年5月の礼拝説教から

 
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  説教 「悔い改めを待つ神」 ルカによる福音書13章1〜9節  
           
  「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない」(2節)。  
 



 
           
   私たちが神にどういう態度を取るのか、それによって神は私たちにどう臨まれるか。――そうしたことを主イエスが教えておられた(12章)、ちょうどそのとき、「ピラトの兵が神殿を襲撃して、礼拝に来ていたガリラヤ人を殺害した」という、驚くような知らせが飛び込んで来ました。こうした悲惨な出来事をどう受け止めたらよいのでしょうか。身近な問題であればあるほど切実です。
 ユダヤ人の常識ではこうです。――「善い行いには必ず善い報い、悪い行いには必ず罰が伴う。不幸は、罪を犯した人間への神の正当な報復。でなければ、悲惨な目に遭うはずがない」。儒教にも通じる、因果応報の思想です。『コヘレトの言葉』は違います。「魚が運悪く網に掛かったり、鳥が罠にかかったりするように、人間も突然不運に見舞われ、罠に掛かる」(9章12節)。果たして、不幸な出来事は「罪の報い」なのでしょうか、それとも「不運の結果」でしかないのでしょうか。
 イエスは言われます。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(2,3節)。もちろんこれは、殺されたガリラヤ人にも、塔の下敷きになって死んだ18人にも(4節)、「悔い改めない罪」の結果、天罰が下ったとする因果応報をいうものではありません。全ての人を、悔い改めへと招いておられるのです。悔い改めとは、方向転換して神のもとへ立ち帰ることです。
 神は告げます。「私は悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」(エゼキエル33章11節)。
 生まれつきの盲人について問う弟子たちに、主イエスは言われました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9章3節)。神の業とは、神をほめたたえて生きることではないでしょうか。――人生には、理解し難いことがあり、辛いことや悲しいこと、心を引き裂かれるような経験もあります。しかし、そうした辛さや悲しみを抱える私たちに、確かな眼差しを向ける主イエスがおられます。その主イエスによって立ち帰るとき、嘆きは感謝に変えられるのです。
 
   (5月5日礼拝説教から。牧師井上一雄)