2019年6月の礼拝説教から

 
 ロゴ
ホームへ

説教集へ

           
  説教 「狭い戸口から入るように努めなさい」 ルカによる福音書13章22〜30節  
           
  「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」(30節)。  
 



 
           
   「狭い戸口から入るように努めなさい」。この勧めは、「狭い門から入りなさい」(マタイ7章13節)という御言葉とよく似ています。しかし、同じ時のものではありません。主イエスは、新しい教えだけでなく、同じことも繰り返し教えておられたことが判ります。教育は繰り返しです。御言葉がその人の肉となり血となり、その人を救いに至らせるために、主は繰り返し教えるのです。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(テモテ二3章16節)。そのように、私たちもまた聖霊に導かれて繰り返し聴く中で、キリストと出会い、しっかり結ばれて行くのです。
 では、「狭い戸口」とは何のことでしょうか。それは、「狭い門から入りなさい。・・・命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7章13,14節)とあるように、天に通じる入り口です。「狭い入り口から入るように努めなさい」とは、神さまが与えてくださった大切な課題として、自分の救いのために格闘することです。重い病気にかかった人の中には、「どうにでもなれ」と自暴自棄に陥る人がいます。反対に、諦めないで少しでも快復するように努力する人もいます。「救われても救われなくても、どうでもいい」と、投げやりになってはいけません。まことの望みを知らないまま迎えられるほど、死や滅びは生易しいものではないからです。
 天に通じる入り口は、「狭い」といいます。余計なものを持っていたら入れません。「救われるために、私はあんな苦労をし、こんな努力もした」と自負する人も入れない。そうした狭さです。しかも、「『ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、・・・教えを受けた』と言い出すだろう」(26節)とあるように、「キリスト教をこれほど知っている」、「これほど関わりがある」といくら訴えても、入り口が開かれないばかりか、神は「お前たちがどこの者か知らない」と言われるのです。
 その入り口とは、「わたしは門である」(ヨハネ10章9節)と言われる、主イエス・キリストそのものです。「ぶどう園の労働者のたとえ」(マタイ20章1節以下)にも「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」とあります。そのように、救いは、働きの大きさや信仰の年数の長さにはよりません。ただ主の愛と憐れみによります。キリストが自らの命をもって支払った、十字架という1デナリオンによってのみ、私たちは救われるのです。
 
   (6月2日礼拝説教から。牧師井上一雄)