2019年7月の礼拝説教から

 
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  説教 「打ち砕かれた心の人に命を」 ルカによる福音書14章1〜14節  
           
  「安息日だからといって、すぐ引き上げてやらない者がいるだろうか」(5節)。  
 



 
           
   福音書には、主イエスと他の人たちとの印象深い食事の風景がたくさん出て来ます。今日の聖書箇所は、ある安息日のいくつかの食事風景です。 一つ目は、揚げ足を取ろうとして人々が主イエスの様子をうかがっている、そうした食事風景です。実際、ファリサイ派や律法学者の主イエスに対する「揚げ足取り」は、陰湿で執拗でした。「クレーマー」と言われるものかも知れません。彼らはそうすることで人々を正しい道に導こうと考えていました。しかし、主イエスは言われます。「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(ルカ6章42節)。「まず」とは、自分が神の怒りの前に立つ者であることを請け負う「まず」です。そこで重要になるのは、主イエスが身を持って示された「まず」、私たちを罪と死から救うために十字架に掛かられた「まず」ではないでしょうか。
 もう一つの食事風景は、水腫の人が主イエスの御前にいる風景です。「水腫」は、文字通り体に異常に水が溜まり、時として死をもたらす病気です。当時は、不道徳な人が罹ると考えられていたようです。もちろん、人間が作った迷信です。彼を癒した上で、主は人々にこう告げます。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。病気に苦しみ、差別によってさらに傷つけられた人に、自分の掛け替えのない存在を重ねて見なさい、というのです。つまり、「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」ということです。私たちは、人を愛そうとしながらも、「自分を愛すること」と「人を愛すること」の間に大きな溝を抱えています。その溝の真ん中に主は立っておられます。十字架という橋を架けて立っておられます。
 最後は、招待された人が上席に座りたがる食事風景です。「少しでも上の席に座りたい。立場が下の人間が自分より上の席に座ったら許せない」、そう考える人々の風景です。彼らには、「むしろ、貧しい人、体の不自由な人、・・・目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから」と言われます。見返りを第一にして行う業は、愛の業とは呼べません。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(フィリピ2章8節)な方の、見返りを求めない愛によって、私たちは救われました。その愛に打ち砕かれた人こそ、命を得るのです(イザヤ57章15節)。
 
   (6月30日礼拝説教から。牧師井上一雄)