2019年8月の礼拝説教から

 
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  説教 「死んでいたのに生き返った」 ルカによる福音書15章11〜32節  
           
  「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(32節)。  
 



 
           
   この「放蕩息子のたとえ」は、「父親の愛のたとえ」と呼ぶべき物語ではないでしょうか。実際、二人の息子に深く関わっているのは父親です。中心にいるのもそうです。私たちの人生にも、それが言えるように思います。私の人生の主人公は、確かに「私」です。しかし、私たちは、主イエス・キリストによって「私」を知り、見失った羊としての「私の姿」を知り、救われて「父なる神」を知りました。主イエスは言われます。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14章9節)。さらに、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる」と告げて、私たちを神のもとへ招いておられます(マタイ11章29節)。
 物語に登場する下の息子は、財産の分け前を父に要求します。それを貰うと、彼は全部お金に換えて遠くに旅立ち、放蕩の限りを尽くして使い果たしてしまいます。しかし、ちょうどその頃、地域を大飢饉が襲います。なんとか豚飼いの仕事に就きますが、働き始めたばかりの彼に食べ物をくる人はいません。飢え死にするほどでした。その飢餓の中で、ようやく自分が捨てて来たものの大きさに気づかされます。失ってはじめて気づく大事なものがあるのです。
 彼は我に返ります。当時、「悔い改める」ことを「我に返る」と言い表しました。「悔い改める」とは、神のもとに立ち返ることであり、本当の自分に返ることなのです。彼は自分にこう言い聞かせます。「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました』」(17節)。彼は、ずっとこの言葉を反芻(はんすう)しながら、立ち返えって行くことになります。私たちに必要なこともまた、この作業なのではないでしょうか。それが、祈りとなり信仰の告白となるのです。  「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」とあります(20節)。この「憐れに思う」は、「善きサマリア人のたとえ」のキーワードでもあります(ルカ10章33節)。「憐れに思う」とは、「心を込めて相手を思いうこと」です。自分ファーストを唱え、エゴイズムの道をひた走る、そんな現代に最も必要なものがこれではないでしょうか。「父よ、彼らをお赦しください」と十字架上で執り成された主イエスこそ、罪人の悲惨を深く憐れむ方です。父親の切実な愛を知らない上の息子。最も近くにいながら最も遠くにいる彼もまた、主の憐れみのもとにあります。
 
   (8月4日礼拝説教から。牧師井上一雄)