2020年4月12日の礼拝説教から

 
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  説教 「 わたしを通らなければ」
ヨハネによる福音書14章1〜10節
 
           
  わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父の許に行く事ができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。(6〜7節)  
 



 
           
   神への信頼を失って右往左往するイスラエルに、神はこう告げました。「『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。お前たちは言った。『そうしてはいられない。馬に乗って逃げよう』と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また、『速い馬に乗ろう』と言ったゆえに、あなたたちを追う者は速いであろう」(イザヤ30章15,16節)。――2020年度の復活節の礼拝を、このような状態で迎えようとは、昨年、誰も予想しなかったと思います。しかし、復活の生ける主によって、今こそ、「神のもとに立ち帰って、安らかに神に信頼することで力を与えられたい」、そう思います。

 (1節)「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。イエスは、そう勧めています。勿論、理由があります。すぐ前の、13章の終わりにありますが、弟子達を遺して、イエスがどこかに行くと告げたからです。ペトロは、「主よ、どこへ行かれるのですか」と訊ねました。すると、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来る事は出来ないが、後でついて来ることになる」。そう答えます。ペトロは、その謎めいた言葉に、ただならぬ事態を予感しました。そこで、「あなたのためなら、命を捨てます」と言います。しかし、彼の決意を砕く答えが返ってきます。「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」。「あなたが自分に失望しても、私があなたがたを見捨てることはない。だから、何があっても心を騒がせるな。神を信じ、私を信じなさい」。そう励ましておられるのです。
 ルカが伝える御言葉を思わずにはいられません。22章31〜32節(p.154)「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。私達も今、「小麦のようにふるいにかけられている」、そんな気がします。しかし、まことの信仰は、「自分の知恵や信心に頼ること」ではありません。「キリストに頼ること」なのです。私たちも、キリストに頼り、キリストに執り成され、キリストに励まされて、信仰に生きたいと思います。
 ペトロは勿論、私達のためにも、主イエスはこうおっしゃいます。(2節a〜4節)「わたしの父の家には住む所がたくさんある。・・・行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」。
 「主の山に備えあり」と創世記(22章14節)にあるように、主が先立って備えておられます。信仰は、いつもそうです。試練を潜らなければなりませんが、神は伴っていてくださいます。「今ついて来る事は出来ないが、後でついて来ることになる」というのも、そうです。「主が先立ってくださる」。そう信じるからこそ、「死の陰の谷を行くときも、災いを恐れない。あなたが共にいてくださる」。御言葉という鞭、聖霊という杖が、力づけるからです。
 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。この御言葉を弟子たちが心に刻んで、力強く歩むようになるのは、復活の主にお会いし、聖霊降臨の出来事にあずかってからです。つまり、生ける神に出会い、聖霊を与えられて初めて、「心を騒がせる者」から、「神と主イエス・キリストを信じる者」へと変えられることになります。

 ところが、今度はトマスが問います。その問いは、「分からない」というものです。(5節)「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」。「ずっと、イエス様に従って行きさえすれば良いと思っていたのに、我々を置いて行ってしまう。あなたがどこへ行くのか、我々に分かるはずはないでしょ」。そう抗議しているのだと思います。
 それを聞いて、主イエスはこう諭されます。(6〜7節)「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父の許に行く事ができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」。ここで注目すべきことは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父の許に行く事ができない」と、イエスがキチンと告げておられることです。この「道」は、どこにでもあるような道ではありません。誰もが知っている道でもありません。主イエスだけが、よく知り、語る事が出来る道です。しかも、その道は、父なる神に通じる道です。この道を通らなければ、父なる神のもとに行くことはできない。余計なものをたくさん身に付けていては、決して通れない、十字架と復活の主イエス・キリストの道。そこを通ってはじめてまことの神の許に行くのです。
 さらに今度は、フィリポが問います。今度の問いは、「見せてくれたら、信じます」という主張です。(8節)「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」。――「『父を見ている』と言われても、我々は見ていません。そこまでおっしゃるなら、見せてください。見せてくれたなら、信じます」。そう抗議しているのです。神は見えません。多くの神学者は、トマスの問いも、このフィリポの問いも、「愚かな問いだ」と言います。しかし、これは、私たちの中にもある問いではないでしょうか。「愚か」というなら、その愚かさは私たちも抱えているものではないでしょうか。
 イエスは、答えます。(9節a)「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。・・・わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを信じないのか」。
 私たちも、直接、この目で神を見る事はできません。主イエス・キリストについても同じです。けれども、聖霊によって、見る事が出来ます。信仰によって、心の目で見ることが出来ます。主の復活を信じないトマスに、イエスは告げます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。トマスは、答えて言います。「わたしの主、わたしの神よ」。復活の主イエスは、主を目の前のしながら信じないトマスに言われました。「あなたは私を見たので信じたのか。見ないで信じる者は、幸いである」(ヨハネ福音書20章29節.p.177)。私達の幸いは、「見ないで信じる者の幸い」、御言葉と聖霊による信仰に生きる幸いです。十字架の主、復活の主をそうやって見るのです。
 旧讃美歌272番はこう歌います。「@ナザレのふせやに、疲れをいとわで、いそしみたまいし昔は知らねど、残りし御業に我が主と知るかな。Aスカルの井戸辺に渇きも忘れて、悟させたまいし昔におらねど、命の清水を我が主に汲むかな。Bカルバリの丘にて世人の罪とが、なげかせたまいし昔は見ねども、あふるる恵みに我が主を見るかな。Cエマオの道にて語れる御弟子に、現れたまいし昔に遭わねど、燃え立つ祈りに我が主と遭うかな。Dオリブの山より御父のもとへと帰らせたまいし昔に住まねど、御国の光に心も澄むかな」。

今回のウィルス感染問題が、人類に突きつけているのは、「分断の力」ではないでしょうか。教会に突きつけられた課題もまた、「分断」という言葉で表す事ができるかも知れません。こうして限られた人だけで礼拝をせざるを得ないのは、そのためです。礼拝に来たくても、来られない人がたくさんいます。お互いにウィルスに感染しているかも知れない、そんな不安も、私たちを分断しました。私たちは、実際、分断を余儀なくされているのです。この現実だけ見て神を疑い、神と自分との間に分断を意識する人がおられるかも知れません。トマスのように「分からない」と言い、フィリポのように「(解決を)見せてくれたら信じます」というのかも知れません。
 しかし、そうした分断を乗り越える力が私たちには与えられています。私たちを一つに結びつける方がおられます。エフェソ書は、こう言います。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和の絆で結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです」(4章1〜4節)。私たちは一つです。主あって、一つです。十字架に向かわれる主イエスは、こう告げます。「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)。そのイエスによって励まされています。
 
   (4月12日礼拝説教から。牧師井上一雄)