2020年4月19日の礼拝説教から

 
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  説教 「 神様は天国にも、地上にもいる」
マタイによる福音書6章1〜4節、申命記15章11節
 
           
   
 



 
           
   5章から続いて「山上の説教」と呼ばれているところです。内容としては、今日のところも含めておおむね共通して、天の国、天国について語っておられます。天の国は、神様のいるところです。わたしたちは、手を伸ばしても神様に辿り着くことはできません。神様の領域というものがあるからです。具体的に言えば、無いところから何かを生み出すこと、生命の誕生や、これからの行く道の未来を予知するなど、決して人にはできないことです。神様にしかできないものをわたしたちがしようとすることはできないのと同じように、神様が住んでいる天の国がどのようなところか、基本的には分かりません。ただし、何も分からず正体不明で不気味なのかと言えば、そうでもありません。わたしたちには、教えてくださるイエス・キリストがおられます。今日の教えは、わたしたちがいつの日かこの地上を去る時に、天の国に導かれるための手引きです。
 さて、新約聖書の時代には、貧しい人々に分け与えることが行われていました。これは、1節に記されている「善行」や、2節には「施し」と記されている、慈善活動です。現在でも、貧しい人や困っている人を助ける活動は色々なところで行われています。それぞれは尊い活動で、続けていく必要がありますし、必要としている人たちもたくさんいます。
 ただここで考えたいことは、それぞれの活動は、一体何のために行われているのか、ということです。2節では、聖書の時代のユダヤ人の善行、慈善活動について、主イエスが指摘しています。ユダヤ人は、貧しかったり生活に困っている人に対して、「施し」と記されている慈善活動をしていました。これは、旧約聖書の申命記15章11節に記されて、仲間を助けることは、神様から命じられていることでした。神様が言っているのならばいいではないか、と思うところですが、主イエスは、どのようなことを問題として、指摘しているのでしょうか。
 わたしたちは何かありますと、感謝したりされたりします。お礼を言ったり、感謝の気持ちを手紙やプレゼントなどで表現するのはよくあることです。ただし、そうしていくうちに、人からお礼をいただくことの方がメインになってしまうことがあるのです。何かをして、感謝されたり褒められたりすると、嬉しいのです。「ありがとう」「こんなにしてくれるなんて立派だね」「さすがだね」「こんなにできてすごいね」「優秀ですね」などと言って、時には持ち上げるのです。お礼をするときに何か品物を贈ることもありますが、そんなとき時折「これほどしてあげたのに、お礼がない」「お礼がこれしかない」などというぼやきが聞こえてくることもあります。
 先ほど申した通り、良い事をすること自体は、旧約聖書に記された神様からの命令です。しかし、人からほめられると嬉しいわけで、次第に、神様の名でもってしていることも、自分のために行うようになっていくのです。神様が「貧しい仲間は助けなさい」と言っているからしているのですよ、あくまでも神様なんですよ、というふりをして、その実、自分が感謝されたい、褒められたいという自分のための思いに捕らわれてしまっていたユダヤ人が多かったようです。神様という大きな名前で包み紙をして、その中身は結局自分への感謝を集めるための行いです。これを2節で主イエスは、「偽善者」という言葉も使いながら、指摘しています。
 2節で語られているような、「人からほめられようと」するのは、この世の価値観で言えば自然なことかもしれません。しかし、主イエスが教えておられるのは、天の国についてです。わたしたちが、この地上を離れた時、やがて行きつくところにおいては、わたしたちの価値観とは違ったものがあります。
 先ほどは、天の国について、どのようなところかわたしたちには分からないと申しました。しかし、ただひとつだけ、分かっていることがあります。それは、天の国には父なる神様がいて、そして主であるイエス・キリストがいる、ということです。天の国には神様がいて、良いものを良いと、正しいものを正しいと、本当に確かな目でもって仕分けてくださっています。
 では、今わたしたちが生きているこの世界はどうでしょう。神様は出かけていて留守なのでしょうか。そんなことはありません。神様はいます。天の国にもいます。この世にもいます。神様はひとりですから、それはどういうことなのかと、分身しているのかと、矛盾だと思われるかもしれません。それでも、神様の目においては、矛盾はありません。今わたしたちが生きているこの世界は、天の国ではありませんけれども、神様の手によらないものは何一つありません。神様の力の及んでいないところはありません。そういう意味では、私たちが良く知っているこの世界と、天の国は、つながっています。
ご存知の通り、主イエスは天にいますし、わたしたちは地上にいます。居所は別々のように思えます。それでも、わたしたちは主イエスとつながっています。天の国とこの地上には、大きな隔たりがあるのは事実です。何しろ、わたしたちは天にいます神様を見たことはないですし、主イエスのお姿を見たこともないからです。ただ、主イエスに出会ったわたしたちは、この地上にいながらにして、まるで天に移されたかのように、大きな力に包まれながら、安心して、平安のうちに生きることができています。
この世界では、何かしていても人の目に触れなければ、まるで無かったかのように、何もしていないかのように思われがちです。陰での努力や、見えないところでの支えはたくさんあるのだと思います。しかし、なかなか分かりません。分かろうとしても、見えないし、知ることも難しい場合があって、素通りしてしまうのです。
そんな、聖書では「施し」と記されている行い全てを、神様はご覧になっています。他の誰が知らなくても、神様は知っています。そして、その良い行いを、間違いなく、正しく評価してくださいます。今日の聖書の箇所では、主イエスは聞いている人々に対して厳しく注意しておられますが、それは施しをするときにはどうしたらよいのかを教えておられ、決して、施しそれ自体について批判したり、内容についてではありません。
神様は、わたしたちが行っていることについて、知っておられます。ですから殊更に、周りにアピールしたり、成果を強調したりする必要はありません。わざわざ人に知らせて、人からの名誉を集めようとすることを、主イエスは良い事として捉えてはおられません。人からの誉れより、神様からいただく名誉、正しい評価の方こそ、わたしたちを生かすものです。主イエスは父なる神様の御子として、人からの名誉を求めないということを人一倍よく知っておられます。そしてご自分だけでなく、その教えによって、従って来る弟子たちに対しても、人ではなく、神様へ栄光を帰すことを求めておられます。人は、神様に創造されたものとして、この世に生かされています。この世のものはみな、神様由来です。人間も全部そうです。ならば、その大元からの評価こそが一番価値があるはずです。
今、巷では「インフォデミック」と呼ばれて、根拠のある情報もない情報も広くあふれて、混乱しています。その中で、あまり流されていない知らせもあるのだと思います。小さい、力の弱い、声の小さい、余裕のない人たちがいます。周りの発信する声の大きさに、まるで存在がないかのように、忘れられがちになります。
そういったところにこそ、目を向け、心を向けることを、神様はお喜びになると、主イエスは教えておられるのではないでしょうか。多くの人の目には触れないかもしれません。褒められもしないかもしれません。それでも、主はお喜びになります。わたしたちにできることは、そう多くはなく、最後は主に委ねる他はありません。それでも、隠れたことを見ておられる、父なる神様がいます。できる術をなにも持たなかったとしても、主イエスから教えていただいている御心を忘れずに保ち、祈りながら、天におられる神様に心を向けながら、生活を続けてまいりましょう。

【執り成しと御言葉への応答の祈り】
天の父なる神様、御言葉に押し出されて、一日一日生かされます恵みを感謝いたします。
世の中は混乱の中にあります。今こそ主の言葉を聞かせてください。正しいものを見分けるために、わたしたちを助けてください。心の目と耳を開かせてください。御心を行わせてください。混乱の中で捧げる礼拝は、足りない部分もあるかもしれません。それでも、わたしたちの精いっぱいの祈りと讃美の声を聞いてください。礼拝が十分に守れていなかったとしても、わたしたちを主に連なる者としてください。
 わたしたちの教会の中にも、病気を得ている者、悩みの中にある者、疲れを覚えている者、遠い地にある者、不自由な中にある者、顔を思い浮かべることのできる多くの者がおります。その場その場にあって、豊かな恵みを注いで、生かしてください。皆の健康を守ってください。
このお祈りを、主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げいたします。アーメン。
 
   (4月19日礼拝説教から。伝道師 永井文)