2020年4月26日の礼拝説教から

 
 ロゴ
ホームへ

説教集へ

           
  説教 「 生きている者の神」
ルカによる福音書20章27〜40節,出エジプト記3章:6節
 
           
   
 



 
           
   エルサレムに入城した主イエスは、神殿で教え、福音を告げ知らせました。祭司長たちは、それを見て「何の権威でこのようなことをするのか」(20章2節.p.148)と問い詰めます。イエスは逆に問い返しますが、彼らは答えません。その後すぐ、主イエスは人々に「葡萄園と農夫の譬え」を話されます。祭司長たちの問いに対する、いわば答えです。彼らは「回し者を遣わして」、イエスの言葉尻を捕らえようとします。この時もまた、イエスは問い返します。それでも、彼らは答えません。どこまでも問うだけです。このことは、信仰の大事な真理を示している気がします。
 私たちも神に問うことは、あると思うのです。「いつまで、このウィルス問題で苦しまなくてはならないのですか」、そう問います。しかし、問うだけでは信仰とはいえません。信仰の歩みは、主イエスに問われる者として生き、その問いに誠実に答えようとする、そこからしか始まらない、そんな気がします。イエスが心を込めて問い掛けているのに、本気で向き合おうとしない彼らは、結局、福音にあずかることができませんでした。イエスを殺そうとするのです。

 今回、主イエスに問いをもって迫ったのは、サドカイ派の人々です。ユダヤの祭儀を司る特権階級です。その多くが貴族で、インテリでした。ギリシア的な教養を身につけ、合理性を大切にし、世俗的です。現代人に近い、そんな気すらいたします。だったら、ずっと存在しそうなものですが、そうじゃない。紀元70年に勃発したユダヤ戦争で、エルサレム神殿が崩壊されます。それを機に、サドカイ派も消滅して行きます。その信仰が受け継がれることはありませんでした。
 この人たちの特徴は、聖書のとらえ方にあります。創世記から申命記までの、いわゆるモーセ五書だけを聖書としていました。モーセ五書に「復活」という言葉はない、ただそれだけの理由で復活を否定します。このルカ福音書27節に「復活があることを否定するサドカイ派」とあるのは、そのためです。五書に書いてある律法に従ってさえいれば、善いと考えていました。その分、罪を犯した人には、過酷でした。「人を厳しく問う。しかし、自分はまともに問わない」のです。主イエスは、彼らを「マムシの子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と叱責しています(マタイ3章7節)。「聖書をどう読むか」は、「どう生きるか」に直結する問題なのです。
彼らの問いはこうです。(28〜33節)「先生、モーセは私たちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子どもを残さないで死にました。最後にこの女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか」。
 「兄が死んだら、兄の妻と兄の弟が結婚する」。これは、家を絶やさないための知恵です。しかし、今回の問いで彼らが問題にしているのは、「人間が死んだらどうなるか」、ということです。彼らは、この問題をまともには考えません。理由は、単純です。モーセ五書に書いていないからです。それは別にして、「死んだらどうなるかを考えない」は、現代人の問いでもあります。
 現代文化の根底に、ヨーロッパの文化があるのはご存知だと思います。それには、ギリシア思想に端を発するヘレニズムと、ユダヤ教・キリスト教から生まれたヘブライズム、この二つの源流があります。この二つは、歴史の中で互いに関わり合い、織り合わされて、ヨーロッパの文化は形造られて来ました。
 科学は、ヘレニズムに立つ理性の追求から生まれました。科学によって、人類は迷信から解放されました。生活も豊かになりました。しかし、理性や科学だけで、本当に幸せになれると考えるとすれば、それもまた迷信です。返って人間を不幸にします。サドカイ派がそうだったように、ヘレニズムだけでは行き詰まりまるのです。パウロは、コリント書(一8章1節)でこう言います。「『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」。人類に本当に貢献する科学を作り出す力、つまり科学的精神は、神の御前に謙遜になることで健全にされます。ある学者は、「近代科学を成立させたのは、プロテスタントの精神だ」、ということを論証しました。主イエスは、旧約聖書を引用して、こう言われます。「人の生くるはパンのみによるにあらず。神の口より出づるすべての言による」(マタイ4章4節・文語訳)。

 さて、「死んでから先のことは考えない」サドカイ派の人達に、主イエスが何とおっしゃったか。そのことに注目したいと思います。(34〜36節)「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐもない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」。
これを聞いて、多くの人が呟くのではないでしょうか。「死んで甦ったら、天国でまた夫に会える。妻に会える。懐かしい父や母と会える。子どもとも一緒になれる。それが望み」、そう考えからです。地上で結んだ絆が、いつまでも切れない。そう願う人ほど、「めとることも嫁ぐもない」と言われても、素直には聞けないのです。しかし、大切な御言葉を聞き過ごしてはなりません。
 マタイによる福音書の並行記事は、こういう御言葉で始まります。22章29〜30節「イエスはお答えになった。『あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ』」。サドカイ派の人たちは、インテリでした。しかし、知識を重んじるあまり、「聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と言っておられるのです。聖書を知るということは、神の力を知ることです。主イエスは、論理的な筋道によって「甦りがある」などとは言っていません。甦りは論理ではありません。願望でもありません。どこまでも「神の力」によるものです。
 先ほどの、「地上で結ばれた愛の絆」についても、言える事です。「聖書も神の力も知らない」まま、それにしがみつくような、「思い違い」をしてはいけません。聖書は、「愛は決して滅びない」と言っています(コリント一13章8節)。しかし、この場合の「愛」は、ギリシア語の「アガペー」、つまり「神の愛」です。私たちの「愛」ではありません。「決して滅びない」のは、神の愛です。私たちの愛が「決して滅びない」というのではありません。「愛は決して滅びない」と語るコリント書(一13章)は、続けてこう言います。「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。・・・わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られるようにはっきり知るようになる」(11,12節)。
 そうした「決して滅びない」神の愛によって、私たちの地上の愛の絆も、教会の中に生まれる信仰者同士の愛も、与えられ、聖められ、支えられるものです。「この人たちは、・・・天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」と言っておられます。それは、「神のふところに生きる」ということです。神によって新しく造られた存在して生きることであり、「決して滅びない」愛によって生きることです。勿論、その神のふところで、夫と妻が再び出会う喜びを味わうかも知れません。親子が手を取り合って喜び合うことも、あるかも知れません。しかし、それもまた、「神の恵みの力」によってであることを、忘れてはなりません。大切なことは、死線を超えて私たちを生かす、「神の恵みの力」です。
 イエスは、今日の御言葉の最後に言われます。(37〜38節)「死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、今、地上にはいません。どこかに墓はあったでしょうが、今となっては、どこにあるのか分かりません。しかし、彼らの神は、今も生ける神です。彼らは、神の御手に今も生かされています。神様をつかまえる、彼らの信仰の力が強いからではありません。彼らをつかまえている神の力が強いからです。だから、私たちも、死に直面しても、生きておられる神によって生かされます。

 
   (4月26日礼拝説教から。牧師井上一雄)