2020年5月3日の礼拝説教から

 
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  説教 「 父なる神の右の座に」
ルカによる福音書20章41〜44節
 
           
   
 



 
           
   人類は、甚大な犠牲を払うほどの大きな試練を、何度も経験して来ました。その度に、物事の本質や根本が問われ、変革を迫られました。教会もその例外ではありません。今回のウィルス問題でも、そうです。教会はギリシア語で「エクレシア」、「神によって召し集められた者の群れ」といわれます。その「集められた者の群れ」である教会そのものが、「集まること」に困難をおぼえています。世界中の教会がそうです。
しかし、教会は「小さな群れよ、恐れるな」(ルカ福音書12章32節)と告げる、主イエスの確かな召しと導きのもとにあります。その主にあって「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように」努め、「補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされる」(エフェソ4章3,16節)。立つべきは、そこだと思うのです。今日の御言葉は、その立つべき原点となるものです。

 「復活を否定するサドカイ派」(20章27節)の人達に、イエスは問います。41節「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」。マタイによる福音書の並行記事では、こうなっています。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」(マタイ22章41節)。そのように、イエスが本当に聞きたいのは、「人々の思い」ではありません。私たちにも、「あなたにとって、メシアとはどういう存在ですか」、そう訊ねておられるのです。信仰の核心部分からです。
 物事には「それさえしっかり掴んでいれば大丈夫」という核心部分(=コア)があります。「キモ」と呼ぶものです。勿論、信仰にもあります。それが、主イエスが問うておられる、「あなたにとって、メシア=キリストとはどういう存在か」、ということです。そのキモを掴むためには、聖書の読み方が問題になります。聖書は神の言ですから、御心を無視して読むわけにはまいりません。
旧約の詩人は、こう告白しています。「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も、罪の代償の供え物も求めず、ただ、わたしの耳を開いてくださいました」(詩編40篇7節)。当時、人々は神殿で神様に感謝の供え物をしました。罪の償いの供え物もしました。しかし、神が求めるものはそれではなかった。何を求めたのは、神の言葉を聞くことでした。
 パウロも言います。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。・・・実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10章14,17節)。信仰は、「聞くこと」に始まります。信仰のキモは、神の声に聞くことです。
 そのため、「ただ、わたしの耳を開いてくださいました」というのです。直訳すれば、「あなたはわたしのために、わたしの耳を掘ってくださいました」となります。聖書を読み、御言葉を聞いているつもりでも、心の耳が何かで塞っていて聞こえない。神の言葉として聞こえて来ない。そういうことが、ある。詩人は、神がそんな「わたしの耳を開いてくださいました」と告白するのです。
 では、心の耳が開かれるには、何をすべきでしょうか。「わたしの耳を開いてください」、心からそう祈ることだと思います。幼子サムエルは、神殿で神に呼び掛けられました。しかし、誰が呼んでいるのか分からない。祭司エリは、「主よ、お語りください。僕は聞きます」と祈るように教えます。サムエルは、その通り祈りました。この時以来、生涯、神の言葉を聞く人となります。神が耳を開いてくださる、耳を掘ってくださる。その時、御言葉を聞く時、神の声が聞こえ始めるのです。

 41節「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」。そう問われた主イエスは、続けてこう尋ねます。42〜44節「ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足台とするときまで」と』。このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデなのか」。詩編110篇1節の「ダビデの詩」を引用して、また問うのです。
 当時のユダヤ人は、将来現れるメシア=救い主は、「ダヒデの子孫だ」であるだけでなく、ダビデと同じ政治的な王と考えて待望していました。それには理由がありました。当時、愛する祖国はローマの支配下にありました。自分達の国でありながら自分達の国ではない、ローマに従わないと滅ぼされてしまう。屈辱以外の何者でもありません。そんな窮地から救うために、神が救い主を送ってくださる。「ローマと戦って勝利を納める王が来られる」、と信じていました。
 「そう信じるのは、彼らの自由だ。いちいち『間違っている』と言うほうがおかしい」、と思うかも知れません。しかし、それはあまりにも安易な発想であり、無責任な発言です。このまま、「ローマと戦う救い主」の到来を待望すれば、何が起こるでしょうか。戦争です。実際、30数年後、ユダヤ戦争を起こして戦いに敗れます。人々は国を追われ、離散の民=ディアスポラとなります。彼らの子孫の多くは2,000年近く経った今も、世界中に離散したままです。戦う相手を間違え、何が救いなのかが分からなくなると、そうなるのです。
 誤りを正すために、主イエスは、(44節)「ダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデなのか」と言われます。ダビデ自らが、「本当の救いは、自分のような人間によっては与えられない。自分を遥かに超えた方こそが、救い主なのだ。そう述べている事になる」、とおっしゃるのです。勿論、ダビデにとっても、イエス・キリストは救い主です。

 その主イエスは、メシアが、父なる神から、「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」と」、告げられたことを述べておられます(ルカ20章42,43節)。ここで主イエスが、「メシア」、つまりキリストと呼んでいるのは、御自身にほかなりません。福音書が示すのは、人々が期待し、想像している、高いところに立っている王ではありません。人々の思いからかけ離れた方、低いところまで降られた主です。そして、私たちの思いを超えて高く、神の右に座しておられる方です。
 この「神の右の座」というのは、明らかに一つの場所を指す言葉です。しかし、これは「場所」よりも、主イエス・キリストの「働きを示す」と言うべきだろうと思います。右手で身を護る、大切な人を護る。そのために、右の座に着くといいます。聖書では、父なる神の右の座にあって、安心して何もしないのではなく、王として働いておられる、支配しておられる、ということです。「父なる神の右に座しておられる」、そう信じる時、私たちは遠くにキリストを見るのではなく、私達と深い繋がりを思わされるのです。
 この父なる神の右に座しておられるキリストを、よく見据えて生き、そして死んだ人として思い出されるのは、ステファノではないでしょうか。使徒言行録7章55〜56節「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った」。59節「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。そして、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい』と大声で叫んだ」。
 一見、憎しみと暴力だけが、その場所を支配している。そのような中にあって、今、殺されようとしているステファノが見たのは、神の右に立っておられる主イエスだったといいます。しかも、見たのは、「座っているイエス」ではなく、「立っておられるイエス」でした。ここで本当に支配し、力をふるっておられるのは、主イエス・キリストだということを見ているのです。しかも、そのキリストに「あなたの力で、これらの人々を懲らしめてください。討ち滅ぼしてください」と祈ったのではない。「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい』と大声で叫んだ」のです。生まれて間もない教会が、最初の殉教者であるステファノを通して体験したのは、神の右にあって、執り成しておられる主イエス・キリストです。 
 私達もまた、そのキリストの支配を信じて礼拝します。この世界がどんな暗い闇に覆われても、私たちが死の谷を行く事があっても、キリストの導きがあることを信じて参りたいと思います。
 
   (5月3日礼拝説教から。牧師井上一雄)