2020年5月10日の礼拝説教から

 
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  説教 「 今こそ、不変そして普遍の主と共に」
マタイによる福音書6章:5〜8節 詩編6篇:9〜10節
 
           
   
 



 
           
   祈りは、わたしたちにとってなくてはならないものです。なぜなら、わたしたちが神様と関わりを持って対話できること、つまり神様との交わりが、お祈りだからです。
 聖書の時代にも祈りがありました。ところが、5節では、主イエスは偽善者たちがしている祈りを非難して、「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」と語られています。当時のユダヤ人には、お祈りをする時のポーズがあったといいます。地面に倒れ込みひれ伏すような姿勢、立って手を挙げる姿勢、ひざまずく姿勢など、様々です。わたしたちも、祈りのポーズといえば、手を胸の前で組んで、頭を下げたポーズをイメージしますから、定番の姿勢があるということは理解できると思います。
 ただ、主イエスが指摘しているのは、いかにもそれらしく、祈っていますよというアピールの度が過ぎた祈りです。祈っていますよというアピールをすることによって、あの人は神様にまっすぐに向かっている敬虔な人だなと、人々からの印象を勝ち取ることができます。特に敬虔な人が多く集まっている会堂で祈れば、アピールの効果は抜群ですし、単純に通行人が多い大きな通りでポーズを取って、いかにも祈っていますという風で祈れば、人々からの注目を集めることもできます。すると、見た人からは「あんなに熱心にしていて偉い」「素晴らしい」などと言ってもらえるわけです。人は誰でも、褒められるのが好きですから、ますますそれらしくふるまいます。このような、人に見られるための祈りをする人を、主イエスは「偽善者たち」と言って非難しています。
偽善者と言われているのは、見た目には神様をほめたたえているけれども、その実は、自分への賞賛を集めている人のことです。これでは、祈りの本質が損なわれてしまいます。祈りは神様との対話のはずですが、これでは、神様に向かっていません。人に見せるため、そして自分の評価を上げるための行いです。神様神様と口では言っておいて、自分の利益のためにしないよう、主イエスは弟子たちを戒めています。自分のために、神様の名前を利用しているからです。
 では、どうやって祈ればいいのでしょうか。ここで注目したいところは、6節です。ここでも、祈りについて語るにあたって、父なる神様とわたしという、個人的な関係について語っておられます。
 また、祈る場所についても語られています。「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」ということですが、これも、場所を指定しているというよりは、わたしというひとりの個人となって、神様と向き合うことを教えてくださっています。祈りに必要なものは、神様とわたしという、関係です。
 続いて7節では、祈りのその言葉についても教えられています。「異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」と、痛烈な、しかし的を射た指摘です。わたしたちも、誰かの講演を聞いたりする機会がありますが、弁の立つ人を目にするとすごいなと、さぞ立派なんだろうというイメージを持つことがあります。文章でもそうかもしれません。長く書ける、長く話せるという、言葉がたくさん出てくればそれだけ説得力を持っているような気がしてしまいます。
 ちなみに主イエスは、聖書の様々な場面で祈られていますが、夜が明けるまで祈ったり、同じ言葉を繰り返して祈ったりすることがあります。ゲツセマネの祈りの場面がよく知られているように、長々と祈られることもあったわけです。これは、7節の言葉を聞くと、もしかすると言行不一致ではないかと思われるかもしれません。しかし、言葉の数の多い少ないが一番の問題なのではありません。神様とわたしの関係においては、言葉が多かったとしても少なかったとしても、正しく対話をすることができます。
とはいえ、相手に物事を伝えるとしたら、どちらかと言えば言葉は多い方が、よりはっきり伝わるのでは?と思うところです。そこで、8節を読みたいと思います。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」とあります。
実際、立ち止まって考えてみますと、わたしたちが神様に対して、どんな言葉を並べることができるでしょうか。本来的には、わたしたちは祈りの言葉など持っていないはずです。一体、神様に対してどう呼びかけたらいいのか、まずそこからスタートしなければならないはずです。わたしたちは、緊張しながら誰かに話しかけるとき、言葉を出そうとしながらも、いざその時になったら口ごもってしまうことがあります。ましてや、祈りの相手は神様です。わたしたちからは決して手の届かない存在です。
 しかし、父なる神様は、私たちの全てをご存知です。大きな存在を目の前にして、緊張すると、言葉が出ない人もいます。逆に、饒舌になる人もいます。神様は、わたしたちが祈ろうとして関わり合い、対話しようとする存在を大切にしてくださる、わたしたちの父です。祈りには、言葉に出す祈りも、言葉でなしに祈りから来る行いもあります。言葉が出なかったとしても、神様と関わり合おうとするその祈りの行いも、父なる神様は聞いてくださり、喜んでくださります。
 また、8節を読むとき、次のようなことを考える方もいるかもしれません。「神様はもう必要なものを知っているのならば、わざわざ祈る必要ってあるのだろうか」ということです。神様は何でもご存知ではありますが、歴史の中の世々の信仰者は、それでも祈ってきました。真剣に祈り求めてきました。「神様はもう知ってるのだし、言わなくてもいいや」とは考えませんでした。
 それはやはり、わたしたちが神様との関係を正しく保つために必要なことだからです。祈りは、神様との対話です。8節では、主イエスは神様のことを「あなたがたの父」とおっしゃいました。イエス・キリストは神の子ですから、「わたしの父」と言うのなら分かると思います。しかし、ここでは「あなたがたの父」です。つまり、わたしたちの父です。神様は、わたしたちに近しい存在として、聞いてくださる方です。対話してくださる方です。良い関係でいようとしてくださる方です。そして、神様のことを、わたしたちの父であると教えてくださっているのが、主であるイエス・キリストです。

 この頃、世の中は窮屈になっています。マスクをしないでいれば悪口を言われ、テレビでは出かけている人にインタビューしては顔にモザイクをかけてまるで非難のターゲットのような含みで扱われています。感染予防のために、ある程度は必要なのかもしれません。しかし、何をするにも、いつも以上に人の目が気になってきます。それは、今、わたしたちは余裕がなくなっているのだと思います。いつもなら気にならないことも、目に入り、耳に入ってきます。人の行動が気になります。
 今一度、わたしたちは、祈ること、主を見上げることをしたいのです。天にいます神様に、そして主であるイエス・キリストの存在を思いましょう。日々移り行く中にあって、過去も、現在も、未来も変わらずにいます方がいます。言葉に出す祈りも、祈りを込めて行う様々なことも、聞いてくださっています。どんな言葉でも、どんな体勢でも、どんな時でも、神へと向かっているのが、祈りです。
 わたしたちは、人と人との間で生活しています。色々なことを見たり聞いたりすることもあります。揺れることもあります。それでも、ただひとつ自分を動かすものは、人ではなく、御心によってです。世の中では嵐が吹くこともあります。見えない嵐もあります。それでも、土にしっかりと根を張る木のように、わたしたちは主へとしっかりつながれてまいりましょう。

 
   (5月10日礼拝説教から。教師候補 永井文)