2020年8月の礼拝説教から

 
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  説教 「あなたのために祈った」
ルカによる福音書22章31〜34節
 
           
  「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」(32節)  
 



 
           
   最後の晩餐の席で主イエスは突然、こうおっしゃいます。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(31節)。「ふるい(篩)」は、ご存知のように小さな穴が無数に開いた道具です。ふるいに掛けて激しく揺すると、それまで見えなかったものが見えて来ます。この場合のふるいは、主イエスの苦難を通して、使徒たちの本当の姿を彼らにはっきり示すためでした。サタンが標的にしたのは、イスカリオテのユダだけではなかったのです。
 別離や悲しみ、諍(いさか)いや憎しみ、失敗や挫折、病気や愛する者の死、それらを通して、わたしたちもふるいに掛けられます。それによって露呈するのは、自分の愚かさや弱さだったり、愛の貧しさや信仰の無さではないでしょうか。物事が順調に行っている時には見えなかった自分の姿に、実際、愕然とすることがあります。サタンはそれをよく知っているのです。しかし、その時、自分の現実を見つめなかったり、問題を周囲のせいにばかりしたり、誤魔化してはなりません。「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきて(=御言葉)を学ぶことができました」(詩編119篇71節・口語訳)。旧約の詩人のこの告白は真実です。
 ところがペトロは、「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(33節)、そう豪語します。自分に酔う彼に対して、主イエスは具体的にはっきり告げます。「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(34節)。その通りになります。逮捕された主イエスの後を追って大祭司の中庭にいた時、「あの人の仲間だ」と言われると、「知らない」と三度も口にします。そして、独りになって激しく泣きます。一度口にした言葉は、元に戻りません。してしまった行いもそうです。そこに罪がはっきり表れます。わたしたちにも、取り消せない言葉があり、出来事があります。取り戻せない関係もあります。
 しかし、人を立ち上がらせるのは主イエスです。こう告げます。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(32節)。ふるいに掛けられた時、自分の弱さや愚かさ、信仰の無さをイヤというほど実感します。けれども、そのわたしたちが聞くのも、主イエスの「しかし」です。これほど確かな約束と励ましはありません。信仰とは自分に酔うことではなく、わたしの罪と破れを示しつつ、わたしのために祈る主イエスのこの「しかし」を受け入れることです。
 
   (8月2日礼拝説教から。牧師井上一雄)