2020年10月の礼拝説教から

 
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  説教 「イエスを釈放しようと思って」
ルカによる福音書23章13〜25節
 
           
  「訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった」(14節)  
 



 
           
   人々が主イエスの処刑を求める理由について、裁判官であるピラトは、「ねたみのためだと分かっていた」(マタイ27章18節)とルカはいいます。実際、ユダヤの指導者は、権威あるイエスをねたみ、イエスに心を奪われている民衆を恐れました(ルカ20章19節,22章2節)。一般民衆がイエスを訴えて来たのも、「ねたみのためだ」とピラトは見ていました。ガリラヤの貧しい大工に過ぎないイエスが、メシアとして期待されていることが許せないのでしょう。
カインが弟のアベルを殺したのも、「ねたみ」からでした。彼は、神が弟に目を留め、自分にはそうでないことに腹を立てました。さらに、それを神から咎められて逆上しました(創世記4章4,5節)。新約聖書は言います。「カインのようになってはなりません。・・・なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです」(ヨハネ一3章12,13節)。相手が正しく、自分が間違っていることが分かっていても許せない、分かっているから許せない。そうした心理は私たちにもあると思います。
「ねたみ」の根っこにあるのは、「自分への強い執着」です。「私を求める罪」(創世記4章7節)です。今日のネット社会からは、人間の心の奥に棲む「ねたみに狂うカイン」の姿が透けて見えます。心ない書き込みやヘイトスピーチに溢れています。ネットに限りません。気に入らない人間が、いい思いをしていたら許せない。幸せなのも許せない。痛い目に遭わせたい。自分の苦労を思えば思うほど、自分が幸せでなければないほど、そう思う。そんな心理も働きます。
 イエスを釈放したいピラトの意に反して、「十字架」の要求はますます強くなります。人の心は強情なのです。聖書で「かたくな=強情」は、もともと「うなじが強い(こわい)」という意味です。そんな「かたくな」な私たちを救うために、主イエスは「屠り場に引かれる羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように」(イザヤ53章7節)、十字架に向かわれます。「十字架につけろ」と叫ぶ人のためにも、「父よ、彼らをお赦しください」と祈りながら執り成すのです(ルカ23章34節)。
 カインがいた時代、人を殺した人間は「殺して良い」とされていました。ところが神は、「だれも彼を撃つことがないように、カインにしるしを付けられた」とあります(創世記4章15節)。具体的にそれがどんなものだったかについては、分かっていません。しかし、採取的な「罪の赦しのしるし」なら私たちが知っています。主の十字架だということを(コリント一1章18節)。
 
   (10月4日・主日礼拝から。牧師井上一雄)