2020年10月の礼拝説教から

 
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  説教 「主にのみ依り頼んで」
マタイによる福音書6章24節
 
           
  「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(24節)  
 



 
           
   この聖書では、神様か富かに仕える、もしくは両方に仕えるかという問題が示されています。始めに結論を申しますと、わたしたちは、神様に仕えるより他にないということです。生活の中では、様々なことで選ばなければならないことがどうしてもあります。しかし、神様に仕えるか、それとも他のものに仕えるかという選択だけはありません。
 それでも、ここで強く教え諭されているほどに、わたしたちの間には誘惑が多いということでもあります。信仰の戦いは日常にあります。神様でないものが、神様のように成り代わってくることすらあります。日本に住んでいると特に、あちこちに神がいることも珍しくありません。そんな中では、同調圧力もあって周りに合わせなくてはならないことも多くあります。
 24節の「富」という言葉は、金銭や財産という意味の他に、偽りの神、偶像という意味が含まれます。わたしたちを神様でないものへと押し流していくものが語られています。これは古くから語られ、旧約聖書に記された十戒のひとつにも「わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20:3)とあります。
しかし、人の歴史は神様から離れるばかりでした。報道でも連日、どうしてそんなことが、と思うような事件を伝えています。身近にも、差別や暴力など、心ないことがあふれています。人は簡単に、主が喜んでくださるのとは違う方向へと転がっていきます。この誘惑の中には、金銭が絡むものばかりとは限りません。「富」という言葉には広い意味で、わたしたちが御心から遠ざかってしまうあらゆることが詰まっています。
 そんな誘惑だらけの中で、わたしたちはどうして、神様を求め続けることができるでしょうか。それは、間違いなく、主イエスがわたしたちを引き寄せてくださっているからです。主には、人ではどうしようもできない荒波にのまれそうになったとしても、打ち勝てる力があります。人にできる範囲など軽々と超える力があります。右にも左にもそれずに、天を見上げることのできる力です。そんな神様がついているのです。こんなに心強いことがあるでしょうか。
 主イエスは、いつも変わらずに、昨日も今日も、そして明日も、わたしたちの確かな道しるべとして共にいてくださいます。わたしたちは主に連なっています。絶えず立ち返りながら、木から伸びている枝のように、栄養をいただいて、生きています。生かしてくださる神様の力を信じています。主の力に感謝して依り頼んで、主に委ねて、力強く、また新たに歩み出していきましょう。
 
   (10月11日礼拝説教から。教師試補永井文)