2020年12月の礼拝説教から

 
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  説教 「へりくだって、死に至るまで」
フィリピの信徒への手紙2章6〜11節
 
           
  「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず・・・」(6節)  
 



 
           
   ギリシア神話に、あらゆるものを呑み込む「時の神・クロノス」が登場します。産声とともに生まれた赤ちゃんも、やがて年老い、「流れに浮かぶ泡(うたかた)」(方丈記)のように「クロノス=時」の餌食になって消える。それでも、何事も無かったように「時」だけが刻まれて行く。――仏教の輪廻(りんね)思想はこれに近いと思います。
しかし、時を支配するのは、クロノスではなくまことの神です。宣教活動の始めの、主イエスの宣言はこうです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1章15節)。この「時」は、「カイロス」(ギリシア語)です。キリストに出合い、キリストに導かれ、キリストの御前に立つ「時」です。私たちは、キリストが最初に来臨したクリスマスの「既に」と、再臨の「これから」の間(はざま)を生きています。アドベントとは、その今をキリストに向かって生きる時です。
 フィリピ書のこの部分は、初代教会で歌われた讃美歌「キリスト讃歌」です。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」とあります。「神の身分」(口語訳聖書「神のかたち」)とは、何を意味するのでしょうか。ヨハネ福音書に「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった」(1章1節)とあります。この御言葉を重ねるとよく解ります。つまり、神である方が、奴隷としてこの世に来られた。その驚くべきメッセージを告げているのです。何のためか。罪と死から私たちを救うためです。
 それにもかかわらず、多くの人はその恵みに驚きません。「罪があるから、救いが必要?」という程度の理屈や、他人事として考えているからではないでしょうか。しかし、「愛すること」は「苦しむこと」です。愛の対象のために苦しむことから逃げて、「愛する」ということにはなりません。キリストは罪と死を抱える私たちを愛するがために、天から低くなって私たちのもとに来て、肉を裂き、血を流されます。キリストの十字架は、私たちの救いの確かな担保なのです。
神でありながら、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(8節)であられた方。この方こそ、私たちの救い主です。そのため、「イエス・キリストは主である」(11節)と告白する人は、それまで「主」と呼んで来た、あらゆるモノから解き放たれます。私たちには、死に打ち勝たれたキリストだけを主とし、讃美礼拝する喜びがあります。
 
   (12月6日・主日礼拝から。牧師井上一雄)