説教 「ヘロデは悪役か」 マタイによる福音書2章1〜12節 |
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「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(10節) | |||||
クリスマスは、救い主であるイエス・キリストの誕生をお祝いする日です。当然、主役は主イエスです。ところが、この聖書では、お生まれになったという事実だけで、その詳細は記されていません。記されているのは、その周りの人々の様子です。 まずは学者たちです。彼らは、「ユダヤ人の王として」(2節)と話しています。初めから、主イエスがどのような方か知った上で、導かれています。「そのうち」ではなく、「既にユダヤ人の王である」方として、主を拝んでいます。 興味深いのは、その学者たち本人は、ユダヤ人ではないということです。「東の方から」(1節)来たという彼らは、つまり異邦人です。その彼らが、はるばる主を訪ね、贈り物を渡し、喜びにあふれています。「ユダヤ人の王」は、主が十字架にかかったときの肩書としても知られています(27:37)。主イエスの生涯は、十字架に向かっているご生涯です。最後は主のことがよく分からない普通の人々によって、十字架にかけられます。ですから、学者たちの訪問は、大きな伏線です。福音書の初めから、学者たちのように主を知っている人と、ヘロデのようによく分かっていない人との両方が考えられています。 さて、もうひとりの登場人物である、ヘロデにも注目したいと思います。クリスマスの絵本や紙芝居などでヘロデが登場するときには、彼はだいたい悪役です。2章の後半で大量虐殺を画策する様子は、人の心がないとすら思えてしまいます。8節では「私も行って拝もう」とは言うものの、学者たちのように喜んではおらず、拝む気がないことは、その後を見れば明らかです。ヘロデとその周辺の人々は、主イエスを受け入れるどころか、誕生を恐れていたといえます。主イエスの誕生の光は、ヘロデにはまぶしすぎて、思わず目を逸らしてしまうほどです。学者たちと違って、喜ぶような様子はありません。 立ち止まって考えますと、わたしたちは学者たちとヘロデ、どちらでしょう。もちろん、学者と言いたいのです。まっすぐに主のもとへと向かい、ふさわしい行いをしたいのです。実際、主の名の下に集い、御言葉を聞いているのですから、学者でもあります。しかし、残念ながら、そうはできない時もあります。時に、御言葉から離れることもあります。受け入れられないときもあります。ヘロデのように。わたしたちは、ヘロデのことを他人事にはできないのです。主の救いは、異邦人である学者たちにも至っているのと同じく、まだ主を信じていない人や、時に信じられないような気持ちにもなってしまう、弱い罪人のわたしたちにも豊かに注がれています。主がくださる恵みの広さ、深さ、大きさに驚くばかりですが、今一度感謝をしたいですね。 |
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(12月13日礼拝説教から。教師試補永井文) | |||||