2020年2月の礼拝説教から

 
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  説教 「その権威を与えたのはだれか」
ルカによる福音書20章1〜8節
 
           
  「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも人からのものだったか」(4節)  
 



 
           
    「ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を宣べ伝えておられると」とあります(1節)。この「ある日」は、原文では「これらの日々の、ある一日」となっています。ルカは意識的にそう述べています。「毎日、境内で教えておられた」(19章47節)、「これらの日々の」上に、「神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられた」(20章1節)、今日という「ある一日」があるのです。

 神殿当局と結託する商人たちを追い出したとき、主イエスは「わたしの家は、祈りの家でなければならない」(19章46節。イザヤ56章7節)と叫びました。しかし、原理や目標を叫んだのではありません。「祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである」(19章47,48節)。そうあるように、聖霊によって御言葉が語られ、聖霊によって御言葉が聞かれる、そこに「祈りの家」は起こされて行く、そのことが現実のものだからです。教会という祈りの家もまた、主イエス・キリストの権威のもとに、聖霊と御言葉が満ちる場です。

 祭司長たちは、それが分かりません。そのため、こうイエスに問い質(ただ)します。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」(2節)。自分たちこそが神殿の権威者であり、自分達の許可なく御言葉を語っていることに腹を立てて、そう問います。しかし、神殿とはもともと誰のものでしょうか。神のものであるはずです。主イエス・キリストが「わたしの家」と言われるのは、そのためです。

 イエスは、反対に問い返します。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」。相談した結果、結局「どこからか、分からない」と答えます。彼らが恐れたのは、結局、神ではありません。世の中であり、自分たちが不利益を被ることだったのです。

 私たちもまた、「自分の城」を築いてその主(あるじ)として振舞っているのかも知れません。そうである限り、自分の生き方や考えを変えないままでいられます。しかし、そこに救いはありません。私たちを救うために低くなられたキリストを受け入れ、キリストに仕えるとき(フィリピ2章6〜11節)、私たちは聖霊の神殿(宮)となります(コリント一6章19〜20節)。
 
   (2月2日礼拝説教から。牧師井上一雄)