2020年2月の礼拝説教から

 
 ロゴ
ホームへ

説教集へ

           
  説教 「主イエスとの出会いを祈り求める」
マタイによる福音書5章43〜48節
 
           
  「正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(45節)  
 



 
           
   子供たちには「みんなで仲良く遊びましょう」などと言うかもしれません。ただ、大人は果たしてそうできるだろうかと考えることがあります。合わないからといって受け入れていないことは、身の回りにもたくさんあると思います。
主イエスは、44節で特に、敵とは具体的に誰々とはおっしゃっていません。敵とはもっと広く、出会う色々な人たちの中で、御言葉を受け取る人の中にそれぞれあります。主の愛は、関係を築くということです。かと言って、無理に相手と親しくなりなさいというのではなく、難しいことを要求しているのでもありません。
主の愛は、救いへと導く愛です。世界にはまだ神様のことを知らない多くの人々がいますが、神様からの招きの言葉でもって、皆が導かれています。自分自身からすると敵対している相手かもしれません。それでも、神様が招いておられるのですから、まだ見ぬ信仰者が主イエスに出会うことを、救いに入れられることを願います。これは、愛です。
45節では、太陽の光と雨の例も挙げられています。神様は、どんな人にでも太陽の光と雨をくださる完全な存在です。より好みせず、分け隔てせず、地上の全てに関わってくださっています。
48節では、父なる神様が完全であられるので、あなたがたも完全な者となりなさいと勧められていますが、恐れおののいてしまいます。人間は完全ではないからです。平等に接することなどできるでしょうか。わたしたちの思いは、自分に好意を持ってくれる人とお付き合いしたいですし、親しい人とだけ挨拶したくなります。みんなと仲良くしようと心がけたとしても、次第に疲弊します。
わたしたちは、主イエスと出会い、信じることで、父なる神様の完全さを受け取ることができます。教会ではよく「あずかる」といいますが、神様の完全さ、神様が聖であることによって、わたしたちは生かされています。教会ではよく「御業」といいますが、完全ではないものを完全であるかのようにしてくださっている神様の、主イエスのなさることは、御業です。全てのものを生かす御業です。
わたしたちは、目標を目指して歩むことはできます。神様のようにはなれませんが、目指す先に何もないのではなく、主イエスが共に歩んでくださっています。わたしたちは、独りでは力の無い者かもしれません。神様がなさろうとしていることを、少しでも追い求める者となりたいものです。そして、より多くの人が、主イエスと出会えることを祈りましょう。
 
   (2月9日礼拝説教から。伝道師永井文)