2020年4月の礼拝説教から

 
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  説教 「 成し遂げられた」
ヨハネによる福音書19章30〜42節
 
           
  イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(30節)  
 



 
           
   十字架上で主イエスが告げた「成し遂げられた」は、神の御心が成し遂げられたことを意味します。では、イエスが成し遂げた御心とは何でしょう。答えは、イエスの祈りそのものにあります。「父よ、時が来ました。・・・子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。・・・わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」(17章1〜4節)。私たちは、断罪されねばならない罪人です。その私たちに代わって、罪無き方が断罪されました。永遠の滅びから私たちを贖うためです。支払われた代価は、神の御子・キリストの尊い命です。その死は、人間的に見れば敗北でも、神にとっては人を救う御計画の完成なのです。それが十字架です。
 イエスは、「『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られ」ます。「頭を垂れる」というと、前に垂れた姿をイメージしがちです。多くの画家もそのように描きます。しかし、ここでは、十字架に頭をもたれ掛けたことを意味します。「頭を垂れる」は、聖書で「枕する」と訳される言葉です。イエスの御言葉を思い起こします。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8章20節)。そのように言われたイエスは、ついに枕する場所を得ました。それが十字架です。
 十字架に枕して、イエスは息を引き取られます。この「息を引き取る」は、直訳すると、「息を引き渡す」になります。ルカによる福音書には、このときのイエスの叫びが記録されています。「『父よ、わたしの霊を御手に委ねます』。こう言って息を引き取られた」(23章46節)。イエスが神に引き渡された「霊」は、ペンテコステに「聖霊」となって教会に注がれることになります。そのため、イエスの十字架の死は、映画の字幕のようなジ・エンドではありません。むしろ、聖霊による「信仰の始まり」であり、聖霊による「教会の始まり」です(ヨハネ16章7,13節)。
 兵士が槍でイエスのわき腹を刺すと、「すぐ血と水とが流れ出た」(ヨハネ19章34節)とあります。この水は、洗礼を意味し、血は聖餐を表します。主イエスの十字架から流れ出た、水は救いの確かなしるしであり(マルコ16章16節)、血はその約束の確かなしるしなのです(コリント一11章23~26節)。私たちには救われる資格も力もありません。救いの確かさは、十字架のキリストの御体から流れ出た、血と水にあるのです(讃美歌474番の1番)。

 
   (4月5日礼拝説教から。牧師井上一雄)