2021年2月の礼拝説教から

 
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  説教 「キリスト・イエスの僕、パウロ」
ローマの信徒への手紙1章1〜4節
 
           
  「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」(1節)  
 



 
           
   ギリシア語原典の書き出しは、「パウロ(から)」で始まります。ラテン語の「パウロ」には、「小(=小さい)」という意味があります。彼には、「サウロ」というヘブライ語の立派な名前があります(使徒言行録13章21~22節)。この手紙を送ったローマの教会にはユダヤ人が多くいました。「サウロ」の方が親しみ易かったのかも知れません。しかし、彼は、ローマで見劣りのする「パウロ」を名乗ります。もちろん、謙遜や自虐的表現によって、自分を高めようとするからではありません。
 実際、自らを「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」(コリント一15章9節)と述べています。神の怒りを受けるべき罪人の自分が、十字架のキリストによって救われました。その絶大な恵みを思うとき、主を誇らざるを得ないのです(コリント二10章17節)。「主を誇る」とは、自分の名はもちろん、自分の考えや感情、自分のして来たことを誇らないことであり、キリストを大きくし、自分を小さくすることです。その意味で、キリストによって救われた者は、皆、「パウロ」なのではないでしょうか。
 パウロのここでの自己紹介は、「イエス・キリストの僕」ではありません。「キリスト・イエスの僕」です。言葉の「あや」ではありません。かつて、サウロが信じ、期待していたのは、別なキリスト(メシア)でした。もともと熱狂的なファリサイ派の一員で、律法に基づく厳格な生活をしていました。そのため、「イエスをメシア」とするキリスト教徒に憤慨し、抹殺しようとしました。
 ところが、迫害の息をはずませながら向かったダマスコ途上、天の光によって倒されます。「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、天から声がありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒言行録9章5節)。はっきりそう告げられたのです。十字架と復活のイエスこそが、まことのキリストであることを初めて知った瞬間です。「キリスト・イエス」は、「わたしたちが本当に信じるべきキリストは、あのイエスです」という告白なのです。
 キリストは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章44節)と教え、そのように生きられた主イエスです。その「僕=奴隷」は、「キリストによって自由を奪われた人間」ではありません。「キリストによって真の自由を与えられた人間」、福音に生きる人のことです。
 
   (2月7日礼拝説教から。牧師井上一雄)