2021年2月の礼拝説教から

 
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  説教 「第一に主を求める」
マタイによる福音書6章31〜34節
 
           
  「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(33節)  
 



 
           
    初めに33節の「何よりもまず」という御言葉に注目します。「まず」という言葉の奥には、わたしたちには他にも色々と思いを巡らすことがある、という事実があります。ただ、他の何よりも優先する第一があります。それは、神の国と神の義です。
 神の国とは、簡単に言えば、天国のことです。そして神の義とは、はっきり表現することは難しいですが、罪とは逆のことであり、御言葉それ自体と言わせていただきます。
わたしたちは誰も未だ、天国を見たことはありません。どこまでも追い求めて行くことになります。そして将来的に、天の国に入ることを目指して暮らしています。今はまだ、天の国に手は届いていません。対して神の義は、「求めなさい」と言われている以上、まだ持っていないという部分があります。わたしたちには、神様がなさるようなことはできないからです。
 しかし、わたしたちと神の国は、ひとつだけ近づけるところがあります。それは、イエス・キリストがお生まれになったことです。主イエスは、神の子として、天から遣わされてこの地上に生まれ、わたしたちに福音を知らせてくださいました。わたしたちは天に手が届くことはないのですが、向こうから、近づいてきてくださいました。主イエスは、福音そのものです。主がこの世に生まれてきてくださったこと、このことが既に、大きな恵みであり、福音です。そして、天に昇られた主は、この地上を、世の中の全てを、その手の中において、恵みを注いで、養っておられます。
 主イエスに出会ったわたしたちは、地上にいながらにして、まるで天の国を先取りしているように、安らぐことができます。その中では、日々の悩み苦しみ心配はあります。しかし、いつでも整えてくださり、愛してくださる主がおられます。道を間違えた時、立ち返るべき先があります。主の前では皆、等しく恵みを注がれ、養われ、生かされています。
 それほど、主イエスは、わたしたちが第一に求めるべき存在です。いつでも安心して、堂々と、何の心配もなく、イエスは主であると、言い表すことができます。「何の心配もなく」というのは、私たちから主のことを心配することはない、ということです。明日のことは、もう主のものであって、主に委ねる他にはありません。この、主に委ねた明日を、わたしたちが先取りして心配することはないのです。
 わたしたちは日々、たくさんのものをいただいていますが、その中で、必要以上の心配からの解放、自由さは、わたしたちが与えられている賜物のひとつです。
 
   (2月14日礼拝説教から。教師試補永井文)