説教 「聖書を悟らせるために心の目を開いて」 ルカによる福音書24章44〜53節 |
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「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて言われた」(45節,46節a) | |||||
「平和があるように」と告げて、復活の主イエスが弟子たちの真ん中に立つと、彼らは「恐れおののき、亡霊を見ている」と思いました。それを見た主イエスは言われます。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」(38節)。 「疑い」と訳されたギリシア語の「ディアロギスモス(dialogismos)」は、英語の「dialogue(ダイアログ=対話)」の元になった言葉で、「理屈」や「議論」とも訳されます。「ディア」は「〜に従って」という意味の接頭語、「ロギスモス」は「物差し」や「判断」という意味の言葉です。総合すると、ここでの「疑い」は、「自分の物差し」や「心の中の議論」によって生じたことを示します。主の復活を考えるとき、わたしたちも自分の物差しを持ち出し、心の中で議論します。その結果、「物差しに合わない、議論しても合理性がない。だから信じない」となるのではないでしょうか。 疑いを抱く弟子達に主イエスが何をおっしゃり、何をなさったか。重要なのは、そのことです。「わたしの手や足を見なさい。・・・さわってよく見なさい」、そう告げました(39節)。つまり、自分の物差しや心の中の議論に頼らずに、「今、目の前にいるわたしを見なさい」というのです。「主イエス・キリストを見る」ということは、復活の主の手と足の釘跡に、脇腹のえぐられた傷に、わたしの罪の深さを見ることであり、罪の赦しと救いを見ることです。そして、「生ける神を見ること」です。ここに、何があっても揺らぐことのない、神からいただく平和(=平安)があります。 「よく見なさい」と告げる主イエスは、「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いた」(45節)あります。人には「心の目」というものがあることを知らされます。私たちの心の目は開いているでしょうか。病気は病む人の心を閉ざします。苦しみや不安に強く捕らえられるからです。悲しみに捕らえられる人も、他人に言えない苦しみや虚しさを抱える人も、自分に強く捕らえられる人も、そして、弟子たちのように自分の物差しや心の中の議論に捕らわれる人も、心を閉ざします。 その固く閉ざされた人の心を開いて神の御言葉を悟らせるのは、人間の業ではありません。キリストの御業であり、聖霊なる神の業です。「『十字架の血にきよめぬれば、来よ』との御声を我は聞けり。主よ、我は今ぞ行く、十字架の血にてきよめたまえ」という讃美歌(1955年版515番,現行436番)を思います。十字架をもって罪人を招く主イエス・キリストは、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と告げて遣わす方でもあります(マルコ10章52節)。 |
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(4月4日礼拝説教から。牧師井上一雄) | |||||