2021年4月の礼拝説教から

 
 ロゴ
ホームへ

説教集へ

           
  説教 「まず自分が愛されているから」
マタイによる福音書7章1〜6節
 
           
  「そうすれば、はっきり見えるようになって。」(5節)  
 



 
           
    7章の1節には、「人を裁くな」とあります。とは言われつつも、わたしたちは普段、人のことで思いわずらい、相手のミスや欠点をとがめたり、過失を責めたりすることがあると思います。それでも、わたしたちはまず自分自身が、主イエスから愛され、罪が赦され、新しく生かされていることを、今一度思い起こしたいのです。
 というのは、この箇所、特に5節までを読むと、目の中にあるおが屑と丸太という言葉が印象的です。そうすると、まるでことわざや格言のように、「人のふり見て我が振り直せ」などというような、何か人間関係の役に立つような言葉集として、この聖書が読まれることもあるかもしれません。痛みや辛さ、嫌なことの方に目が向きがちにもなってしまいます。
しかし、聖書は、福音として、つまり、主イエスからの良い知らせとして読みたいのです。主イエスから福音を聞き、主の名のもとに集められた弟子たちは、そしてわたしたちはすでに、主イエスに出会い、主による安らぎを得ています。目にゴミが入った時のような、意識せずにはいられない不快さの方向へと思いを巡らすのではなく、まずは自分自身がすでに受けている恵みへと、そして感謝へとその思いを至らせたいのです。
 主イエスに出会ったわたしたちは既に、救いに入れられていることを、天におられる神様との交わりを知っています。父なる神様がこの世を、そしてわたしたちをこよなく愛して、大切なお子さまである主イエスをこの世に送り出してくださったことを知っています。
 わたしたちは真珠を持っています(6節)。それは、良いもの、貴重なもの、価値のあるものを知っているということです。対して、豚と言われているものは、価値あるものがよく分からないものの例えとして語られ、皆様もご存じのことだと思います。一度取り除かれた目のゴミも、また入ることがあるように、罪は何度でも忍び寄ってきます。一度気にならなくなった人のことも、次から次へと悪いところが見えたりもします。
 そんなとき、真珠を持っている者ならば、自分の手で相手にその真珠をぶつけるのではないと、語られます。真珠をくださるのは主です。主の御業です。ならばわたしたちは、まずはその貴重な美しいものをいただいた者として、大事にしつつ、天に向かって感謝を表したいのです。そして、仲間と共に主のもとへ向かうために、時に支えあいながら、悔い改めながら、歩む者とならせてくださいます。これからも、より多くの人の元に真珠が手に渡るように、価値が知られるように求めて祈りながら、教会で共に礼拝をささげてまいりましょう。
 
   (4月11日礼拝説教から。教師試補永井文)