2021年5月の礼拝説教から

 
 ロゴ
ホームへ

説教集へ

           
  説教 「霊  的  な  賜  物」
コリントの信徒への手紙一12章1〜7節
 
           
  「一人一人に”霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(7節)  
 



 
           
   「霊的な賜物」とは、神が与えてくださる特別な恵みや能力のことです。コリントの教会には、その賜物をめぐって信徒間に深刻な亀裂がありました。他人の賜物と自分の賜物を自分の物差しではかり、優越感に浸ったり、劣等感や猜疑心にさいなまれていたのです。「異言」が語れるかどうかも、その一つでした。しかし、恵みの賜物を比較の道具にしてしまうのは、偶像礼拝に陥っているからではないのでしょうか。
 「あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう」(2節)。そう言って、パウロは「この世の霊(この世の価値)」、「自分の霊(自分への過度なこだわり)」、そうしたものに縛られていた「わたしたちのかつて」を示すことで、「わたしたちの今」を問うのです。「今もあなたは、この世の霊、自分の霊に縛られてはいませんか」、そう問うのです。
 牧会者パウロは、重要な確認をわたしたちにも迫っています。「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」。そうです。「イエスは主である」と信じる信仰こそが、すべてのキリスト者に神が与えてくださった「霊的な賜物」なのです。最大の賜物は、神がわたしたちを救うためにお与えになった、その独り子イエス・キリストそのものだからです(ヨハネ3章16節)。神の愛も、罪からの救いも、永遠の命も、主イエスによってもたらされた恵みの賜物です。
 その最大の賜物を信仰の土台にするとき、いろいろな賜物の本質も見えて来ます。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」(4〜6節)。わたしたちがいただく賜物も、務めも、働きも、聖霊・御子・父なる三位一体の、同じ神から与えられたものなのです。その証拠に、神のお働きがあってはじめて賜物は用いられます。
 でありますから、「イエスは主である」と告白させる聖霊は、単に個人に霊的満足を与える道具や仕掛けではありません。主の十字架による救いの賜物を無視して、自分の感情を満足させることを追い求めることそのものが、偶像礼拝なのです。「一人一人に”霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(7節)とあるように、ペンテコステの聖霊は、教会を誕生させただけでなく、今も、賜物を用いて教会を建てて行く霊として働いておられる神です。
 
   (5月30日礼拝説教から。牧師井上一雄)