2021年7月の礼拝説教から

 
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  説教 「神の言葉が委ねられている」
ローマの信徒への手紙3章1〜8節
 
           
  「では、ユダヤ人の優れた点は何か。・・・彼らは神の言葉をゆだねられたのです」(1,2節)  
 



 
           
   「では、ユダヤ人の優れた点は何か」。パウロは、そう問います。「では」と訳された言葉は、もともと「それゆえに」という意味のギリシア語です。前の2章では、律法を持っているだけでは意味がない、割礼もうわべだけでは意味がない、そう言って来ました。律法や割礼を持ち出して、他と比べて自分達がいかに優れた民族かと誇っても、全く意味がないというのです。
 もちろん、「優れた点」は、他と比較して気づかされるものであることは確かです。しかし、いちいち他の人と見比べないと自分の幸せを確認できないとすれば、本当の幸せとは呼べないのではないでしょうか。「優れた点」も、同じです。要は、「他と比較してどうだ」ではなく、「神がご覧になってどうか」ということです。この「優れた点」は、「恵まれている点」という意味でもあります。誇るべきものが何もないユダヤ人にあるのは、私たち同様、神さまの一方的な、そして豊かな恵みなのです。
 ユダ族の名にちなんで、イスラエル全体が「ユダヤ人」と呼ばれるようになったのは、バビロニア捕囚の頃からだといわれます。自分たちがユダヤ人であることを強く意識し始めたのも、その時からだというのです。それまで口伝えに伝えられたり、断片として遺されていた創世記をはじめとするモーセ五書が本格的に編集されて行ったのも、その頃だったといいます。
 捕囚の苦しみの中で注目したのは、先祖たちが経験した、あの出エジプトの出来事でした。モーセ五書の一つ、申命記26章5節以下にこう記されています。「あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。『わたしの先祖は、さすらいのアラム人でしたが、少数の者と共にエジプトに下り、そこに寄留しました。そしてそこで強くて数の多い、大いなる国民になりました』」(聖書協会共同訳)。国を失い、捕囚の身になる、そんなどん底の中で、自分たちがどれほど神様によって恵まれて来たか、希望を与えられているかを確認して行ったのです。私たちもまた、苦しみや行き詰まりを通して、神さまから賜っている恵みと望みが見えて来るのではないでしょうか。
 ユダヤ人が恵まれている点は、「神か彼らに神の言葉を委ねられた」ことにあります。その神は、彼らが不誠実でも誠実であり、彼らが偽り者でも真実であり続けました(3,4節)。ユダヤ人は、神の一方的な愛によって担われ、御言葉によって神を指し示すために立てられたのです。私たちキリスト者が恵まれている点も、また私たちにしかできない使命も、「独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3章16節)、神を御言葉によって指し示すことにあるのです。
 
   (7月4日礼拝説教から。牧師井上一雄)