2021年8月の礼拝説教から

 
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  説教 「神を信じる人の幸い」
ローマの信徒への手紙4章1〜8節
 
           
  「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(5節)  
 



 
           
   8月最初の主の日は、日本キリスト教会の「世界の教会をおぼえる日」です。今年は、政府による弾圧に苦しむ中国や香港の教会をおぼえたいと思います。中国では、教会に国旗を掲揚させる、礼拝で国家や政党を讃美する歌を歌わせる、子どもへの信仰教育を禁じるなどの強要が行われています。香港の教会の窮状も伝えられています。しかし、国家や人を「神」として拝ませる偶像礼拝は必ず破綻します。そのことを信じて、教会の苦しみを少しでも分かち合いたいと思います(コリント一12章26節)。
パウロはこのローマ書4章のはじめで、遥か昔のアブラハムやダビデを登場させています。理由は三つあります。一つに、信仰によって義とされる事実は、アブラハムやダビデという肉体を持った人間を通しても明らかなこと、二つ目に、信じることで義とされる救いの道は、旧約時代から既に始まっていたこと、三つ目に、彼らもまた、全ての人間が主イエスによって救われることを指し示していること、です。
「肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たというべきでしょうか」(1節)という場合の「先祖」というギリシア語は、新約聖書で唯一ここにある言葉で、「最も偉大な先祖」という意味があります。この表現には、ユダヤ人の血の誇りも込められています。ユダヤ人がアブラハムを「最も偉大な先祖」として誇るのは、立派な行いによって神に義と認められる道を開いたと考えるからです。独り子を神に捧げようとした「イサクの奉献」はその象徴です。
しかし、神さまが彼に見たのは、「神を信じる信仰」です。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」(3節)とあるとおりです。パウロが着目した創世記15章6節のこの御言葉は、当然のことですが22章の「イサクの奉献」よりも先です。「イサクの奉献」の記事には、「それが、彼の義と認められた」の言葉はありません。つまり、イサクの奉献は、信仰によって義と認めてくださった神への応答です。わたしたちの行いは、救われた恵みに対する感謝の応答として生まれるのです。
神による義を、行いの当然の見返りと考えるとすれば、それは恵みではなく、単なる報酬になります(4節)。しかも、その場合に支払われる報酬は、「死」でしかないことでしょう(6章23節)。しかし、「葡萄園の労働者のたとえ」(マタイ20章)で話されたように、働きの多さや行いの立派さを超えて、主イエスは「十字架による救いという1タラントン」をどんな人にも与えようとしておられます(同14節)。「独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3章16節)神を信じる人こそが、その幸いを豊かに受けることになります。

 
   (8月1日礼拝説教から。牧師井上一雄)