2021年9月の礼拝説教から

 
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  説教 「キリストの死が示すこと」
ローマの信徒への手紙5章6〜11節
 
           
  「実にキリストは、・・・定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」(6節)  
 



 
           
   神から賜る希望は決して失望に終わりません(5章5節)。パウロはその理由をこう述べます。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(5節)。聖霊は、わたしたちに「神の御心を証しする霊」です(ローマ8章15,16節)。6節以下では、その神の愛について聖霊によって証しします。
「実に」は、「事実として」という意味です。神様の愛は、「こうだったらいいのになあ」と考える、憧れとしての愛や仮想の愛ではありません。「苦しい現実の中に生きる我々は、感情に過ぎない愛ではなく、客観的に与えられた神の愛によって養われる」(K.ワルケンホースト)というように、わたしたちが賜った平和と希望は、「客観的事実としての愛」に根拠を持ち、支えられているのです。
その客観的な愛は、「不信心な者のために死んでくださった」主イエスにはっきり示されています。「わたしたちがまだ弱かったころ」は、「わたしたちがまだ罪人であったとき」(8節)のことであり、「(神の)敵であったとき」(10節)のことです。罪を犯し、神を敵にしてしまう根っこに「わたしたちの弱さ」があります。根っこが深くてしぶとい草ほど、何度取っても生えて来ます。放っておくと、窓や入り口をふさぐばかりか建物全体を覆ってしまうことすらあります。
しかし、「まだ弱かった」(6節、「まだ罪人であった」(8節)、「(神の)敵であった」(10節)わたしたちのために、主イエス・キリストが死んでくださいました。もちろん、2,000年前の昔、ユダヤでイエスという人間が死んだというだけのことにどれほどの意味があるでしょうか。ほかの二人も処刑されています。ペトロも死に、パウロも死にました。わたしたちも死にます。そのように、ただ「死んだ」ということだけでは、「神の愛がわたしたちの心に注がれた」、客観的証明にはなりません。
主イエスが死なれたことの意味は、「定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」ことにあります。「定められた時」は、「神の計画によって」という意味です。キリストが死んだのは、単に人間の罪によるものではありません。神から賜った使命によって死なれたのです。生前、主イエスは、「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。・・・これは、わたしが父から受けた掟である」と言っておられます(ヨハネ10章18節)。「キリストの血によって義とされた」人は、神の怒りから救われ(9節)、御子の死によって神と和解させていただいています(10節)。和解には、「交換」の意味もあります。
 
   (9月5日礼拝説教から。牧師井上一雄)