説教 「神に対して生きる」 ローマの信徒への手紙6章6〜11節 |
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「自分は・・・、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(11節) | |||||
画家は、鏡に映った自分の姿を通して、見えないものや心の中まで描こうとします。ところが、ある人は「神抜きに描く自画像は、どうしても楽観的になるか悲観的になってしまう」といいます。そのためなのか、優れた画家ほど自分の自画像に満足しないそうです。絵を描かないまでも、私たちが思い描く自分はどんなものでしょうか。ローマ書6章は「聖書という鏡を通して描く自画像」といわれます。実際私たちは、聖書によらなければ自分の本当の姿をよく知らないのです。 パウロが最初に描くのは、キリストと共に十字架につけられた、「古い自分」です。しかも、「罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると(わたしたちは)知っています」と言います(6節)。3節では、キリストの死にあずかるために洗礼を受けたことを、「あなたがたは知らないのですか」と問うています。つまり、6節でも、「知らないなら、知りなさい」と言っていることになります。 W・リュティというスイスの牧師は、このこととの関連で、ある重犯罪人の回顧録を紹介しています。この受刑者が最も辛かったのは、刑務所に入るときだったそうです。――持ち物を差し出すと全部取り上げられ、最後に看守たちが見ている前で裸をさらす。その上で、冷たい囚人服を着る。――そうした一連の出来事の中で何よりも堪(こた)えたのは、人前で裸になること以上に、これまで直視して来なかった罪人としての惨めさをしみじみ味わうことだったといいます。 十字架につけられたとき、主イエスは裸でした。何一つ罪を犯さなかったにもかかわらず、裸にされ、手と足に釘を打たれて十字架につき、人々に罵(ののし)られました。それは、「(わたしたちの)罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないため」でした。十字架の主イエス・キリストは、わたしたちの罪人としての惨めさ、死に逝く者の厳しいまでの絶望を、私たちに代わって一身に負われたのです。 次に描くのは、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている「新しい自分」です(11節)。それは、十字架のキリストに繋がれ、復活のキリストにも繋げられた私たちの現実を示します。「復活」だけ切り取って、「信じられる。信じられない」、「あり得る。あり得ない」と論じてみても全く意味がありません。私たちは、キリストという葡萄の木に「接木」された者なのです。接木された私たちは、姿も形も罪人のままかも知れません。しかし、「わたしはまことの葡萄の木、あなたがたはその枝である」と告げる主イエスは、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と宣言されます(ヨハネ15章3節)。 |
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(10月3日礼拝説教から。牧師井上一雄) | |||||