説教 「霊に従う新しい生き方」 ローマの信徒への手紙7章1〜6節 |
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「文字に従う古い生き方ではなく、”霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっている」(6節) | |||||
7章の冒頭でパウロは、「兄弟たち=(原文)兄弟たちよ」と呼び掛けています。念頭にあるのは、「肉による兄弟たち」、つまりユダヤ人たちです。彼らの救いのためなら、「キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよい」とさえ述べています(ローマ9章3節)。しかし、ここでいう「兄弟たちよ」は、そうした肉の同胞に限りません。「主にある兄弟たち=キリスト者」(テサロニケ二2章13節)はもちろんのこと、すべての人が含まれていると考えるべきです(ルカ8章21節)。 終末医療の現場で働くキリスト者の医師や看護婦たちは、死の恐怖に駆られる患者にこう語り掛けることがあるといいます。「わたしたちも、いずれあなたの後から逝くのですよ」。これを聞いた患者の多くは、今まで見せたことのない表情で静かに微笑むのだそうです。それは、看取る者と看取られる者、生きている者と逝く者、そうした違いを超えて、一つに繋げられていることを知る者の平安です。わたしたちの違いを超えて十字架によって繋がってくださり、「彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」(ヘブライ2章11節)、主イエスに根拠をもつ平安なのです。 ところで、「律法を知っている人々」(1節)とは、この世の価値や自家製の正義も「律法」になることを知っている人のことではないでしょうか。「こうあって欲しい」という願いも、場合によっては律法になり得ます。そうした律法に縛られて、他人を追い詰めたり、裁いたりすることがあります。しかし、いつまでも憎んだり、恨んだりしていると、「あなたの主人は、いったい誰ですか」と神様に問われる気がしますが、いかがでしょうか。実際、わたしたちの主人は、人を縛り、支配する律法ではありません。十字架をもって罪人を執り成す、主イエス・キリストです。 パウロは、わたしたちを「律法という恐ろしい夫」に死なれ、「死者の中から復活させられた方のものとなった」(ローマ7章4節)妻にたとえています。そうです。わたしたちが仕えるべき主人はもはや律法ではありません。キリストなのです。この世の価値という律法や、自分でこしらえた正義という律法を捨てて、イエス・キリストを本気で「わが主、わが神」(ヨハネ20章28節)と告白して行きたいと思います。 それこそが、「文字に従う古い生き方ではなく、”霊”に従う新しい生き方で(神と人に)仕える」(6節)ことになるのではないでしょうか。「”霊”に従う新しい生き方」は、原文では「霊の新しさにおいて」となっています。「新しい生き方」とは、自分の力や決意によって新しく生きようとすることではなく、「聖霊の新しさに生きる」ということです。だからこそ、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(詩編51篇12節)と祈るのです。 |
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(11月7日礼拝説教から。牧師井上一雄) | |||||